サイバー攻撃で被害を受けたとある企業が無事再稼働をはじめたらしいのだが、それを知らせるYouTubeのCMで、「われわれが立ち直るための原動力はお客様でした」なんてことを言っていた。全くの嘘ではないにせよ、よくもまあそんな作り話くさいことをいうものだなあとおもっていたが、その事件を会社の物語として語り継いでいくためには必要な嘘だったのだろう。
このように、人が物語るときには嘘がつきものである。ドラマの最後に「この作品はフィクションです」というのは一種の嘘の告白であり、ファンタジー作品の数々は現実には起こり得ないことばかりで嘘にまみれている。しかし、誰もこれらを「嘘だ」なんていったりしない。ああいうのは現実がどうとかは一旦隅に置いて、ただひたすら空想の世界に入っていくものとして楽しまれている。そして、ときにそんな空想の世界だからこそ、クリティカルに真実を映し出すこともありえる。心理学者の河合隼雄はこういったファンタジーの効用を次のように語っていた。やや長いが引用する。
……「絵そらごと」、「子どもだまし」とも言えることに、われわれはどうして惹きつけられるのか。おそらく、『ゲド戦記』は、わが国の大人も子どももずいぶん多くの人が読んで感動したに違いない。これは、ファンタジーが最初から、外界との直接的かかわりを否定してかかるために、かえってそれが人間の内界に深くかかわる方向へむかう、とも言えるからであろう。
大人になると、どうしてもお金もうけや、地位の獲得、などなど外界のことに忙しくなって内界のことを忘れがちになる。その結果、いろいろな多くのものを手に入れながら、極めて貧しい生活、乾いた生活をすることになってしまう。その点、子どもの心は柔軟なので内界の方にも十分に注目することができる。したがって、ファンタジーの世界を受けいれることが十分に可能である。
河合隼雄『物語とふしぎ』p.171〜172
このような話をしていると、知り合いの少年が、かつて仮面ライダーやスーパー戦隊などの特撮を指して「ああいうのはアニメでやればいいのに」なんてことを言っていたのを思い出す。彼は特撮作品を見ないで育ってきたらしい。一方の僕は一度離れたものの、大学生あたりから再び視聴を開始し、未だに観続けているのだが……。
特撮を見ないで育ったその少年は、生身の人間が誰がみてもわかるような嘘の世界を演じるのに我慢がならなかったのだろうか。生身の人間が演じることがノイズになって、物語に没入できなかったのだろうか。彼からその話を聞いたときはまだ幼く、まだそれをうまく言語化できないであろうから深くは聞かなかったが、いつか詳しく聞いてみたいものである。なぜアニメなら嘘を受け入れられて、実写ならばダメなのだろうか。彼は河合隼雄がある種想定しなかった少年なのかもしれない。
彼に特撮は合わなかったのかもしれないが、アニメのファンタジーは受け入れている、という点で、やはり人は物語の中の嘘を受け入れ、空想の中にその身を浸すことができるのは確かである。そして、物語の力を借りればこそ、人間の内界にかかわってゆけるのである。
そんな人類がついた嘘の中でもっとも壮大で、かつ多大な影響を今も与えているものといえば、やはり「この世界は神がつくった」というようなものだろう。日本人には神よりも、カミ、そして仏のほうが馴染み深いであろうが、ここでは話を単純化するために、神に絞って話をする。
神がこの世界をつくった経緯は物語として語り継がれており、その物語は聖典として丁重に扱われている。聖典に書かれたことに関する解釈をめぐって諍いがおこったり、ときには武力を用いた争いに発展することもあるが、それは聖典がもつ物語の力を、ひいては神の存在を、人々が強く信じていることの証拠である。
なぜ人は神を信じるのか。それはきわめて人間の内界にかかわる問題だからである。人はついつい「なぜ自分は生まれてきたのだろう」と考えてしまい、その答えを求めてしまう。そしてその答えが「その理由はない」などというものでは、とても耐えられないのである。また、人智を超えた自然界の息を呑むような造形や美しさ、そしてときにおこる暴力的なふるまいに関しても「その理由はない」とされてしまうのは、とても人間には耐えられないのである。なんの理由もなく、ただ無意味にその出来事がおこってしまうことに、人は耐えられない。必ず理由を作って意味を見いだし、納得させようとするのが人間なのである。これは東浩紀が『平和と愚かさ』の中でも語っていたことだ。
これらの無意味性を嘘でまるごと包み込み、すべては神の手によるものだ、とすることで、人々はその物語上の登場人物として存在理由を与えられ、精神の安寧を得たのである。
キェルケゴールが『死に至る病』で語ったところによれば、もし、この物語を信じられなければ、人は絶望にその身を焦がして苦しむしかない。しかし、その苦しみの中で、自分に向けられた神の意志に気付いたとき、人は救われるのであるというのだ。では、その神の意志はどこからもたらされ、そしてどう表現されうるのか。講談社学術文庫版の訳者、鈴木祐丞による解説によれば、それは「信仰——神の意志に忠実な生——とは、結局のところ、「自己への無限の関心」として表現されるしかない」(『死に至る病』講談社学術文庫版 p.284)ということである。やはり信仰、つまり物語を信じ、その中に入っていくことは、人間の内界と深くかかわりをもつ行為なのである。
キェルケゴールはキリスト教における信仰と絶望について語っていたため、日本人には馴染みにくいかもしれないが、親鸞との類似性がたびたび言及され、比較研究もなされているから、興味があればそちらをあたるのもよいかもしれない。最近文庫化されて読みやすくなった釈徹宗による『親鸞の思想構造』がとくに参考になるだろう。
ところで、嘘には上手い嘘と下手な嘘がある。
上手い嘘、というのはよく言われるように、本当のことを混ぜ込んで物語を再構成しつつ、嘘と本当の合間をうまくぼかしてあるものだ。何がなにやら、どっちが嘘で、どれが本当なのか、わからないように提示できているようなものは上手い嘘といえよう。いってみれば、嘘と本当のテンション感が揃っているのである。
いっぽう、下手な嘘というのは、嘘と本当のバランスを著しく欠いた状態で提示されるから、容易に見分けがつく。たいてい、本当のことは自信があるからたっぷりと語るが、嘘のことは言葉少なに、茶を濁すようなことや、お決まりの文句しか語らない。本当のことについてはついつい雄弁になってしまうし、それが嘘を覆い隠してくれるものだと勘違いしてしまうのだが、そこで嘘と本当のテンションを合わせておかないとボロが出る。語らない(語れない)ことによって嘘がかえってその輪郭を帯びてくる。
宗教がつくりだした物語は、その点「上手い嘘」であったのだろう。何が嘘で何が本当かは、今となってはもうわからない。けれども、一定のテンション感でそれらを混ぜ込んで編集し語られたものは、嘘交じりの実話ではなく、説得力をもった「物語」として受け入れられた。
また、ファンタジー作品やフィクションにおける優れた作品は、舞台設定の嘘の中にも、「実際にこんなものがあったら人はこうなるだろう……」などという現実性がうまくミックスされており、物語にリアリティを与えてくれるような、上手い嘘をついているといえる。ここで必要なのはリアルではなくリアリティなのである。上手い嘘がベースになっている物語に人はしばしば唸らされてきた。
そして、三島由紀夫は『肉体の学校』において「お金は大嘘からしか儲からない。誰も真実などにお金を払おうとはしないのだ」(p.70)と書いた。もし、冒頭に挙げた企業がCMで「われわれが立ち直るための原動力は、今すぐにでも復旧して金儲けをしなければならないからです」なんていったらどうなる。誰がそんな企業に金を払おうとするだろうか。人はもはやどこに真実があるかなんてどうでもよいし、できれば見たくないとおもっている。上手な嘘でごまかしてほしいとおもっている。
嘘をつくのを奨励するわけではないが、上手く嘘をつきたいのであれば、やはり物語を練ることである。即興で物語を作り上げ、立て板に水で嘘を重ねる人間を好ましいとはおもえないが、その物語構成力をなにか別に生かせないものかと考えたりもする。
ちなみに僕はかなり嘘をつくのが下手くそである。物語を即興で作り上げるなんてとうていできそうにない。遅い思考が優位なのだろうか、おそらく動画や音声メディアで喋るのもうまくない。なのでこうして遅い思考でもじっくり練ることができる文章を選んでいる。では、ゆっくり考えたであろうこの文章は嘘なのかって?——さあ?
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/29分
ほうれん草・にんじん・ぶなしめじの味噌汁
トントロ焼き
大根の醤油漬け
参考文献
・東浩紀『平和と愚かさ』ゲンロン
・河合隼雄『物語とふしぎ』岩波書店(引用は単行本から)
・セーレン・キェルケゴール(著) 鈴木祐丞(訳)『死に至る病』講談社学術文庫
・三島由紀夫『肉体の学校』ちくま文庫












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