学生の頃から、グループを作って何かを話し合うという機会があると、僕はいっつもグループ内で中心となっている議題そっちのけで、別のことばかり考えていた。議題を離れて全く関係ない空想に耽る……ということはあんまり(?)なかったとおもうけれど、議題の中心からは少しズレたことをボーッとひとり考えていた。だから、ひとりずつ発言を求められるようなディスカッションだと、毎回のように「ちょっと話は変わるんですが……」と切り出すことになる。
「メインの議題はみんなが話し合ってるから、自分はそれについて考えなくてもいい」というのが僕の姿勢であり、口はばったいことを言うけれども、実際僕が別のことを考えていたことで、他のグループが気づいていなかったことに僕が所属するグループだけが唯一気づいていたというようなこともあった。けれどもこんなことが毎回のように起こるわけがない。僕のような、いつも中心の話題から逸れたことを考えているような人間が、古い姿勢を保ったままの企業に入るとどうなるか、推して知るべし。
まあそんな感じだから、議論の中心には立たないように立ち回るのがすっかり身についてしまった。うっかり僕が議論の中心に立ってしまった暁には、そのグループからは求められている議題からやや逸れた、主催者なり上司なりの思惑や期待にそぐわない出力が導かれてしまう。なので、できるだけ発言は慎み、ツッコミたくてたまらなくなるまでは我慢するようにする。
それでも我慢しきれずに自説を開陳し、まとまりかけていた話をひっくり返すというようなことをしてしまった。今よりもっと若かった頃は、それが「周囲を巻き込む力」だなんだと勘違いして、面接の場でさも自分の能力かのように話したこともあったが、今考えれば、こんな協調性を欠いたエピソードを堂々と話すバカヤロウを採りたい企業などあるわけがない。「あなたらしい」だの「個性が輝く」だの「常識を覆そう」だの言いながら、プリミティブにそれらを発揮されては周囲は困ってしまうのであるからして、僕のような、とても中心に身を置いていられない人間は、はぐれ者になっていく。
僕が一時期スリランカカレーの方向に進んだのも、そのアウトサイダー感覚によるものだとおもう。スパイスカレーに目覚めて色んなカレーを作ってみたいとなれば、インドカレーを通ることは避けられない。そして、そこでインドカレー(とその文化)に魅了されてその方向へと突き進んでいくという人は多い。しかし、僕はどうしてもインドカレーに馴染めなかった。別に食べるのはいい。でも、作りたいカレーはインドカレーにないと感じていた。そんな中でインドから海を隔てた島国——かつてセイロンといわれた——スリランカのカレーに出会ったのである。
いわゆる「インネパ」興隆によって、日本人向けのアレンジが加えられてはいるものの、インドカレーが日本のカレーの第二の選択肢として大きな立場を得ることになった。だから、日本のカレーでないカレーを作るとなれば、みんなまずインドカレーを目指す。けれど、調理法も選ばれる食材も、スリランカのカレーと料理のほうがよっぽど日本人に馴染むはずなのだ。みんなそれを知らないからインドにばかり向かってしまう。「みなさんあちらに行かれますけれど、いやいや、こっちにもいい食文化がありますよ」と僕は手招きしたくて、スリランカカレーについての記事を増やした。
おかげさまでスリランカカレーに関する記事はたくさんの人に読まれている。ほかにスリランカカレーについて書いている人はあんまりいないとおもうから、ここに流れ着かざるを得ないというのはあるかもしれないけれど。
とはいっても、僕が作って書いていたのはスリランカカレーの亜流といえるようなもので、誰か本場の人から指導を受けて作ったものではない。結局ここでも主流からは外れている。どこまでも何か中心の軸からズラさずには済ませられないのが僕の性質のようだ。
こうして主流を外れ、亜流ばかりやっているとどうしても浮かんでくるのが「生きづらさ」であるかもしれない。人は群れの中心的な価値観から疎外されて生きていくことに耐えられないから、自分が馴染めないと感じる集団にいると「生きづらさ」を感じてしまうようになっている。確かに、企業人として勤めていたときは「生きづら」かったが、今はまったくそんなもの感じていない。社会的責任であったり、ライフイベントの類もかなぐり捨てて、好きに生きているから今のほうがずっと心身ともに健康である。
アウトサイダーでしかいられないのなら、とことんアウトサイダーをやっていくしかないのである。最近観たYouTubeの動画でなるほど、とおもったのは、中途半端に社会性があるからしんどいのであって、あまりにも社会性が低ければ諦めがつくということである。周囲と歩調を合わせて生きていられる度合いを100点満点で計算してみると、40点ぐらいの人が、半端に合わせられてしまうから諦めがつけられずにいて、一番しんどいというのだ。僕の場合だと何点だろう。少なくとも40点はないからこんな生き方になっている。でも、社会性が40点もないおかげで会社員的な生活はすっぱり諦められたのだから、むしろ社会性がなかったことを寿ぐぐらいの気持ちでいる。
しかし、亜流の人間が生きていけたり、亜流の物事が価値を持てるのはひとえに、主流が主流として中心的な価値を占めていて、そこに多くの人々がコミットしているからこそである。主流の生き方をしている人々が社会を回し、子どもを育て、人を育ててくれているからこそ、僕のような亜流の人間が生きていける。主流の軸がきっちり社会に根付いているからこそ、亜流の考えが新視点をもたらしたり、主流からズレた人々の受け皿となって価値を帯びるようになる。主流を生きる人々に感謝こそすれ、「普通の生き方なんてくだらない」だとか、罵詈雑言を吐くような真似はあってはならない(ちょっと毒づくことはあるかもしれないけど)。
別にアウトサイダー側が縮こまって生きていくべきとはおもわないけれど、だからといってあまりにデカい顔をして闊歩するのも違う。まあ、少なくともディスカッションの流れをぶった斬って意見をひっくり返したことでしたり顔をするようなことはやめておいたほうがいいだろう。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/05/14分
カオマンガイの残りご飯&白ごはんのおにぎり
スナップエンドウ・キャベツ・玉子のチキンスープ
(カオマンガイの茹で鶏を作ったときに取れたスープで)











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