仕事や学校での激しい競争、人間関係の不和、果てない欲望と満たされない自己のギャップなど、現代人は数々のストレス要因に取り囲まれ、苛まれている。ヒトが「ただ生きること」だけを考えていればよかった時代は遥か昔。今となっては、誰もが何かの暗示をかけられたかのようにストレスの只中にその身を置いて自らを高めようとする。もはやそれがある種の美徳にすらなっており、みんなが「ストレスを受容する中で自らを磨けば、きっと成長できる」と信じてやまないから、一人だけ降りるわけにもいかず、自分もなにかストレス要因の中に飛び込んで成長せねばならないのではないか、と考えてしまう。
だが当然ストレスを溜めるばかりでは心身が壊れてしまう。そこで要請されるのがストレス発散・解消を謳う数々の商品やサービスである。背徳感のある食事、身体を癒すマッサージや、「整える」サウナの類、笑いや感動を届けるエンターテインメント。最近は着るだけで疲労回復するというリカバリーウェアも話題だ。
ストレスが溜まる要因といえばだいたいが仕事や人間関係(それには、SNSで見かけた赤の他人との比較といったものも含まれる)にまつわることなのに比べ、その発散・解消の手段は多岐にわたっており、人それぞれ思い思いの方法でストレスを吹き飛ばしたかと思えば、またストレスが溜まる環境へと飛び込んでゆく。
仕事終わりにビールジョッキをぐいっと呷って、「この瞬間のために働いている」という開放感や快感に浸る人がいる(そのビールが格別であるのは認めざるを得ない)ように、もはやストレス解消の消費行動のために働いているといっても過言ではない。仕事でストレスを溜めたら、それを発散するためになにかしらの消費行動に出るというサイクルが完成しており、人々はその輪の中にがっちりと組み込まれてしまっている。そして、その輪をまるでハムスターのように必死に駆けることが人生かのようにおもわれている。
「ストレス」を中心に回っているこの社会において、仕事でこってり搾り取られたかと思えば、ストレス発散の手段でも金を取られ、我々は永遠にどこかから搾られ続ける。何度も水に浸されては絞られる雑巾のように。しかし、そもそも最初のストレス要因がなければ、ストレス発散のための商品・サービスもさして必要なくなる。だがそれでは都合が悪い。
ストレス発散を謳う商品・サービスの提供側は、この世からストレスが無くなってしまうということは期待していない。元が断たれてしまえば商売上がったりだ。それよりも、ほどよくそれを発散させて、またストレス要因の只中へと人々を送り込むのを目的としている。「明日の自分のために」「さらなる効率のために」と嘯いて消費者たちの背中を叩いては、金を稼ぎ、そしてストレスを溜めてきてくれるのを期待している。
ストレス発散サービスの提供側であっても(いやむしろ、提供側だからこそ)、ストレスを抱えながら仕事をするという自家撞着に陥ってしまっている人も少なからずいるだろう。誰かのストレス発散が別の誰かのストレス要因になり、その誰かがストレスを発散させれば、そのまた別の誰かのストレス要因に……と、これが無限に繰り返される。これを〈苦〉と言わずしてなんと言おうか。少し、人は密集しすぎたのかもしれない。
ストレスをできるだけ溜めないようにしつつ、ストレスを発散するための消費を減らしていくといった、浮き沈みの少ない、淡々とした日々を送れと言われて、喜んで飛びつく人はどれだけいるだろうか。それぐらいならば、ストレスを引き受けてでも刺激のある生活の輪に入るほうがマシだという人もいるだろう。本当は降りたくても「周りがそうしているから」降りられないという人もいるだろう。
成長、発展、改善、向上、上昇、拡大、勝利、進化……これらを追い求める限り、ストレスは避けられない。そして、これらの上昇志向にともなうストレスのない人生は味のないガムのようだとする言説が乱舞し、人々はそれに取り憑かれている。そんな中では、味がなくなったガムを噛み続けること=「ただ生きること」はなんだかいけないことかのようにおもえてくる。そして、「ただ生きること」は停滞していることのようにおもえて焦りや不安が湧いてくる。周りの人間も黙っていない。ただ生きているだけのような人を見つけると、焚き付け、尻を叩いてなんとか上昇気流に乗せようとしてくる。「おまえはこのままではいけない」と言いながら。
「ただ生きること」を許さない社会において、ただ生きることを選択するには、いくつかの素質とちょっとの勇気が必要になる。
満たされなくてもそれでいいと思えること。そもそも満たされようと考えないこと。報われようだなんて期待しないこと。他人と比べないでいられること。他人に関心を持たないこと。ひとかどの人物になろうだなんて思わないこと。ものごとの意味を追い求めないこと。他人を疑うこと。そして自分自身を疑えること。全ては相対的で、絶対的な基準・価値などないことを知っていること。
「いくつか」と言ったけれど、あれこれ挙げていくうちに結構多くなってしまった。でも、多く見えるようでよく考えれば被っていることはいくつもあるだろうから、もうちょっと整理できるかもしれない。僕はMECE(モレなく・ダブりなく)というのはあまり好かないからそのままにしておくけれど。
あとはちょっとの「仕方ない勇気」があれば、「ただ生きること」ことに苦を感じることもなく、淡々と過ぎる日々に焦りを感じるということもなくなるだろう。絶えず現状を肯定しつづけること。「仕方ない」と受け入れることである。なんだかニーチェのようになってきた。
この「ただそこにある」状態にしておくこと。判断を保留し続けて、よいもの・悪いものに対し価値を与えないこと。これを続けていればストレスからは解放される。いやいや、よい・悪いの判断をしないままにしているほうが頭の中にモヤモヤを抱えてしまい、かえってストレスになってしまうのではないかという意見もあろう。ならば僕は、そうしたよい・悪いの価値にこだわっていることのほうが、よほどストレスの要因ではないのか、と問おう。
よい・悪いということについて考えないこと。自身を一種の思考停止状態に持ち込むことでストレスから距離を取るのである。変化著しく、絶えず成長を希求する現代において、思考停止は悪だとされている。だが、本当に考え続けることが善で、考えないことが悪なのだろうか。
この世は、考えたからといって答えが出るようなことがらばかりではない。むしろ、曖昧なままで止めておくことが必要なことだってある。なのに、どこかに正解があると信じ込んで、考え続けることで反芻思考に陥り苦悩するようなことだってあるのだ。考え続けることが常に善とは限らない。
むしろ思考を止めてしまうこと。今の自分が考えたってどうしようもないことだってある。たとえば、ある発言をした本人を前にしていない状態で、その発言の意図を考えることなどがそうだ。今確かめられもしないことを考えれば心身に大きな負荷がかかる。また、仮に考えたとしても、思考が一周してまたスタートに戻ってしまったのなら、そこで一旦打ち切ってしまうこと。そうして考えることをやめれば、わざわざ何かを消費しなくとも、ストレスから解放されるだろう。
人によい・悪いの判断を常に下し続けるよう求め、そこで生まれたストレスを発散させるための商売が我々を取り囲んでいるこの社会において、そこから抜け出すには、もはや物事に価値を与えない、判断しないという方策に出るしかあるまい。「おまえはこのままではいけない」という声に耳を貸してはいけない。そんなことを言う人に限って、自身のこれまでを誰かに肯定してほしくてたまらないのだ。右に倣え、俺に習えと言って、自身が思う正解に引き付けようとしてくる。
「ストレスがかかる環境に身を置いたから成長できた」という人がいて、他人にもそうしたキャリアを薦めたりすることがあるが、だからなんなのだ、としか僕はおもわない。その人がやりたければ勝手にやればいい。僕は違う。「みんながやっているからやる」ということに、僕は絶えず疑問を持ち続けてきた。むしろ、みんながやっていることを僕がわざわざやる必要はない、とおもっている。
人の行動の全てが模倣によって形作られているといっていい。人生を組み立てるあらゆるパーツはすべからく他者からもたらされたものだ。覚えた言葉ひとつとっても、他者の口から発せられた言葉を真似して手に入れたものであるし、誰かが「おいしい」と言ったから自分もそれを食べてみたいとおもうようになる。そうした人生の基調をなすパーツは他人から集めるほかない。だがその組み方まで合わせる必要はない。そう考えていたら、僕はすっかり手に入れたパーツをちぐはぐに組み上げてしまったようだ。
なので、このストレス社会が人々を逃さないように、がっちりと組んだ輪の中にはもはや入れない。だけど、いちおう僕も人の形をしているから、僕を人だと勘違いして、社会のほうが魔の手を伸ばしてくることもある。また、僕の中にある他者とそう変わらない部分が、そちらに行きたそうにすることもある。でもそちらにいったって、あまり良いことはないと考える自分が、なんとか引き留める。そうやって生きている限り、僕の逃避行は続く。
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