0120 キレイな金、汚い金

百汁百菜

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 かねにキレイや汚いというものはあるのだろうか。一般的に反社会的勢力が得た資金源シノギや、ヤクザですらない半グレ、トクリュウと呼ばれるようなものたちが非合法・暴力的な手段に訴えて得た金は「汚い」金として考えられており、文字通り資金洗浄(マネー・ロンダリング)の対象となっている。特殊詐欺にとどまらず一般家庭への強盗行為がおこってしまっているのは近年の社会問題となっているが、そうした非合法的な手段で得た汚い金を洗浄する場所として、近年高騰著しいトレーディングカードゲーム市場が目をつけられてしまっているとかいないとか。こうした市場に参入するのは転売ヤーだけではないということだ。
 一方、ごくごく善良な市民たちが汗水垂らして稼いだお金は「キレイ」なものであるとされ、労働で流す汗にまとわりつく清廉さのイメージが、そのお金の美しさを一層際立てている。

 僕の友達の友達に、「投資などで得た金は汚くて、汗水垂らして稼いだ金はキレイなんだ」と主張する男がいた。まあ分からんでもない感覚である。世界中で遊んでいる余剰資金をターゲットに、なんだかよく分からない資産管理・運用のシステムが構築され、商品として売り出され、そこに手元の資金を預けておけば、自分が働くのではなく、金が働いて金を稼いでくる(むろん、減ることだってある)。こんなシステムで増えた金は、なんだか気味の悪いもののようにおもえてくる。それよりも、自分の肉体を動かし、頭を使って世間の誰かしらの役に立った報酬として得た金のほうが、胸を張って受け取ることができるし、気持ちよく使うことができる……それが彼の考えなのだろう。
「汚い」という感覚は、しばしば、我々にとって分類不可能な、あいまいなものに対して向けられる。

 境目があいまいになるとき、つまり内か外か、それがじぶんのものかもはやじぶんのものでないのかが明確でなくなるとき、ひとはそれに「きたない」と感情的に反応する。じぶんの内部と外部、〈わたし〉と〈わたしでないもの〉との境界をあいまいにするもの、境目を不分明にするもの、それが「きたない」のだ。

鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』p.24

 「投資で得た金は汚い」という彼にとって、いや、この世界のだいたいの人にとって、投資というものはよくわからないものである。確かに元手は自分の金かもしれない。しかし、それがどのような仕組みで世界の経済に組み入れられ、そしてどのように殖えているのかはよくわからない。どこからが自分の金で、どこからが自分の金でないのかもあいまいになってくる。こう考えてみれば、投資などで得た金は「汚い」という彼の主張も、とりあえず諒解することはできる。
 とはいえ、これは一応合法的な金のやし方である。しかし、それと清濁の問題は別であると考えている人は多いのではないだろうか。日本の中世では「撰銭えりぜに」という、良貨の中に紛れ込んだ悪貨を洗浄しようという考えが庶民にまで浸透しており、「通貨はどんなものでも同じはずなのに、日本人はどの硬貨を貯めたり払ったりするかということに関心が深」いといわれていた(松岡正剛『日本文化の核心』p.254)。庶民たちは粗末な出来の私鋳銭や渡来銭を嫌っており、支払いの際にも度々トラブルが起きたりもしていたものだから、室町幕府や大名から、円滑な流通が阻害されているとして撰銭令なるものが発出され、撰銭が禁止されるような事態にもなったぐらいである。
 贋金にせがねや非合法・暴力的な手段で得た金が汚いのはいうまでもないが、合法的な手段で得た金に対しても、一部の手段で得たものに対して「汚い」という感覚があるのは、この撰銭のような感覚、あるいは美意識のようなものが働いているのではないだろうか。

 そもそも金自体が汚い、という考えもある。極端な例でいえば、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』の登場人物、猿原真一は金を人間の欲望の権化であるなどといって忌避するだけでなく、金を手に持つと火傷するという特異な体質(?)を持っていた(なので当然無職だが、物知りでご近所をよく助けるので、そのお礼を貰ったりして生活している)。これは創作物における登場人物の例だが、実際に室町時代では、金は汚いものであるという観念、より正確にいえば、金には得体の知れない力が宿っているという考えがはびこっていたという。

……平家の時代がそうなるのですが、「銭の病」という迷信がはびこり、銭を手にしたり貯めたりするとロクなことがおこらないというふうにもなった。
(中略)
 日本人は貨幣の通貨性を認識できなかったのだと思います。だから銭が手に入ると、これを洗ったり、神社に納めたりして浄化をした。

松岡正剛『日本文化の核心』p.245

 貨幣の幣は「神々への捧げ物」を指す「みてぐら」であり、松岡はこの「幣」に対し、人々が「その社会や生活にとって最も大切なコトやモノを媒介する力があるとみなし」ていたので、さまざまなモノを媒介するお金に対しても、この「幣」の字を適用してその力を託したとしている(前掲書、p.247)。そういった具合で貨幣はかつての日本人にとって特別な力を持つものだと考えられており、賽銭や洗銭の対象となっていたのである。今でも、銭洗い弁天で清めた金は「福銭」となって一家に安寧をもたらすといった言い伝えが残っている。
 また、松岡は民俗学者の小松和彦の見解を受けて、次のようにいった。

……日本においては実は「支払い」は「お祓い」なのです。また「お祓い」は神さまへの「支払い」なのです。「祓い」は「払い」であって、「支払い」は「お祓い」でした、そう見たほうがいいでしょう。

前掲書、p.248

「金を払う」ということは「金を祓う」ことでもあった、というのが日本人の貨幣観だというのだ。手元に置いておけば何かしらロクでもないことを招くかもしれないから、厄介払いのごとくさっさと払ってしまってモノと交換してしまったり、先ほど述べたように「幣」としてお賽銭をしたり、聖なる力を用いて清めてしまおうと考えていたのである。「はらう」という言葉には「払う」と「祓う」がデュアルに駆動していた。
 しかし、こうした考えは結局貨幣経済の発展によって壊れていき、だんだんと金にキレイも汚いもなくなって「はらう」のデュアリティも失われた。金をたっぷり貯えているものが大正義であるとみなされる社会が訪れ、人々は金に魅入られ、踊らされ、捧げ物であったはずの「幣」そのものが神格化してしまった。「拝金教」の誕生である。宵越しの銭は持たぬ、なんていうのは遊侠無頼の生き方であり、カタギのやることではなくなった。

 今の世は金で全てが回っているのだから、金を稼ぐことが「正しい」のは確かだろう。だが、その稼ぎ方にはキレイなもの、汚いものがあるとする見方は別の軸で存在する。この軸は人によって異なり、例えば推し活について、「人々に生きる希望を与えているからキレイだ」とする考えもあれば、「崇拝、陶酔にも似た感情を利用して金を巻き上げている汚い商売だ」とする考えもあり、その評価は一定ではない。
 別に僕はここに金稼ぎの清濁にまつわるコモンセンスのようなものを打ち立てなければならない、というようなことを主張する気はない。ただ、室町時代の人々が金に対して直感的に呪力のようなものを感じていたことをあつく擁護したいとはおもっている。金は人を狂わせ、金のために命をかけてしまうほどの力をもっている。そうやって金が人を振り回すのを当時の人々はなんとなく理解していたのであろう。だからその金が持つ力を神に預けたり、捧げたり、清めてもらうことで我が身から距離を取ることを心得ていたのではないか。

 この世において金を稼ぐことがあまりにも絶対的な正しさすぎて、なりふり構わなくなってしまったものの多さには辟易している。せめて形式だけでも清めの儀式をおこない、汚く見せないような工夫は必要だろう。

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2026/06/10分(上)

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参考文献

・松岡正剛『日本文化の核心』講談社現代新書
・鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』ちくまプリマーブックス→ちくま文庫

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