矯正
矯正とは、曲がっているもの、歪なものを整えたり、悪いものをよいものに直すことである。そして、その際には、大抵外からの力をかけることになる。歯の矯正がまさにそうだ。器具を用いて歯の表面、ないし裏面に貼り付けた針金でゆっくりと力をかけて、歪んだ歯並びをきれいに整えようとする。歯たちがひとりでに動いてビシッと整列する、なんてことはありえない。
そんな矯正は大抵苦痛を伴う。僕も中学生から高校生にかけて3年ほど歯列矯正を受けたが、口の中の皮はしょっちゅう針金に引っかかって切れたり痛むし、歯科医との相性が悪かったというのもあって、あまりいい思い出ではない。結局噛み合わせも直らなかった。歯並びだけはきれいに整えられたのが救いか。
歯列矯正は本人の苦痛に加え経済的負担もあるから、しなくて済むならそのほうがいい。とはいえ、曲がって生えてしまった歯を放置すれば審美的な問題に加え、虫歯・歯周病リスクを抱えることになる。ああ、自然にきれいに永久歯が生え揃ってくれればなんて楽なんだろう!
だが、最初からまっすぐであったり、整っていることは、決してそれが長生きしたり長持ちすることを意味しないという。むしろ、曲がっているほうが長生きしたり長持ちすることだってある。たとえば歯においては、何もしなくても整った歯並びであるが故に、それをケアする方向に注意が向かず、それを濫費してしまうことだってあるだろう。一方、多少曲がったり、歪んだ歯並びの方が、歯を大事にする方向に意識が向くかもしれない。
『老子』第22章には次のようにある。
曲則全。
(曲なれば即ち全し。)
まっすぐ伸びている木は、木材として利用するためにあっというまに切られてしまい、その生を全うできない一方で、曲がった木は伐採されることなく天寿を全うできるというのだ。
『荘子』人間世編にも似たような話がある。この章の登場人物、棟梁の匠石は弟子たちと共に旅をしているとき、社の神木となっている大きなクヌギを見つけた。しかし、匠石は立派な大木を前にして目もくれない。それは役に立たないからこそ、この木は大きくなったということを見抜いたからである。匠石は家に帰り着いた夜、このクヌギの大木が夢に出てきて、以下のようなことを告げた。
夫柤・梨・橘・柚、果蓏之属、実熟則剝、則辱。大枝折、小枝泄。此以其能苦其生者也。故不終其天年而中道夭、自掊撃於世俗者也。物莫不若是。且予求無所可用久矣。幾死、乃今得之、為予大用。
(夫れ柤・梨・橘・柚、果蓏の属、実熟すれば則ち剝がれ、則ち辱めらる。大枝は折られ、小枝は泄かる。此れ其の能を以て其の生を苦しめし者なり。故に其の天年を終えずして中道に夭し、自ら世俗に掊撃せらるる者なり。物、是くのごとくならざる莫し。且つ予は用うべき所無きを求むること久し。幾んど死せんとして、乃ち今之を得て、予が大用を為せり。)果実をつける木々はその実が熟せばすぐにもぎとられ、辱めを受ける。大きな枝は折られて、小さな枝はちぎって捨てられる。これはそれらの木々が、自分の能力によって自らの生を苦しめているのである。だから世間に打ちのめされてしまい、天寿を全うできずに、物事の途中で若くして死んでしまうということを招いてしまうのだ。そこで私は、世の役に立つところがないようにとずっと願っていたが、今寿命を迎えんとしているこのときになって、役に立たないことが認められて自分の命を全うするという、大きな有用性を示すことができた。
参考—-野村茂夫『ビギナーズクラシックス 中国の古典 老子・荘子』
これらの話から分かる通り、まっすぐに伸びた木や、たわわに実った果実を提供する木は世間から「役に立つ」とみなされ、徹底的に使い果たされてしまって、あっという間にその身を滅ぼされてしまう。一方、曲がっていたり、他の木よりも劣るとされる材質の木は「役に立たない」からこそ長生きすることができるというのだ。
矯正の必要がないものは、まことに扱いやすく世間から重宝される。なにより素直で手間がかからないのが一番だ。しかしその素直さは都合の良さへと反転し、周りに便利に利用され尽くしてしまう。矯正の必要のない「いい人」ほど真っ先につぶされてしまい、「いい人」だからといって大きなことを成し遂げられるわけではないという例は、周囲をざっと見渡すだけでもすぐに見つけることができるだろう。
一方、素直さを持たない曲者は、周囲から一歩二歩、距離を置かれてしまう。「こいつは使えない」と無視されることもあれば、その曲がり具合や尖り具合がかえって注目を集めることもあるだろうけど、いずれにせよ距離を置いたほうがいいやつだとみなされて、わざわざ近づいてくる人間は少ない。しかし、それによって誰かに目をつけられて使い潰されるということはなく、自身が長生きすることに注意を向けることができる。「こいつをわざわざ矯正してまで使おう」とは思われないからだ。
曲者の側からしても、わざわざ近づいてくる人が少ないのは歓迎すべきことであろう。周りから頼られ、好かれているまっすぐな人を見れば「自分もあんなに素直だったらよかったのに」と思うかもしれない。しかし、じきに分かるだろう。そうした素直な人こそ、拒むことを知らずになんでも請け合ってしまい、プレッシャーに圧し潰されてしまいがちだということを。
一方、曲者はすでに曲がっていることによって柔軟性や弾力をそなえている。なので、ちょっと力を加えられたぐらいでは簡単には折れないし、すぐに元に戻ってしまう。
曲者を利用しようとする人は少ないけれど、たまにはそんな物好きもいるものである。だが、どういった方法で曲者を用いようとしているかには注意を払わねばならない。曲者を曲者のまま持ち味を生かして使おうとしているのか、それとも、どうにかまっすぐに矯正してやろうと考えているのか、である。
「角を矯めて牛を殺す」という言葉があるように、ここでまっすぐに矯正されてしまえばその人の持ち味がすっかり殺されてしまい、「大用を為」せなくなってしまう。矯正しようとする力からは逃れなければならない。なかなか折れないはずの曲者が折れてしまうときは、大抵矯正しようとする力が働いているときである。曲がったところを無理にまっすぐに正されてしまい、強度が落ちてしまったところで折れてしまうのだ。
どうか曲者は癖者のままでいたほうがいい。くれぐれもまっすぐな人間になろうとおもって矯正の力を受け入れてはいけない。まっすぐな人間に擬態しようとするのもやめたほうがいい。それが一度自身を矯正しようとおもって折れた人間からの忠告である。
修正

のちに述べる訂正が「誤っていることを正しいものに直す」ことならば、修正はその正誤に関係なく、あるものをよりよくするための行為であるといえる。マイナスをゼロにするのが訂正で、イチを膨らませたり、見返してみてイチに満たない思われるものをイチにまで引き上げようとするのが修正だ。そしてとくに修正は、矯正と違って外部からの力をかけなくても、自分の意思でもっとこうしたほうがいいと思いつけば実行できてしまうという、内的な行為であるといえる。
とはいえ、この修正にはだいたい正解がない。修正したからといって「よりよく」なったかどうかはわからない。原料や容量の見直しをした食料品は「おいしくなって新登場」というお決まりのフレーズを引っ提げて再び店頭に並ぶが、本当においしくなったかわからないし、ただ単に量が減ったのを誤魔化すために適当なことを言っているんじゃないか、という疑念を消費者に抱かせしまっており、いまやこのワードは「アットホームな職場」ばりに警戒されている。
アニメやマンガでも、ビデオパッケージ化や単行本化の際に作画が修正されることがある。作り手としては、初出のときは時間や予算の関係で出来なかったり、拙さ故に当時はそうするしかなかったものを修正できる機会が与えられれば、そこを修正してより完成度を高めたいと考えている人もいるだろう。
こうして修正されたものはたいてい、最初のときより美しく、見栄えがして整っているから歓迎されることが多い。しかし、修正前の荒々しさがかえって迫力を持っていたり、「味がある」として評価されていたものまでも直ってしまうことがある。ほかにも、会社名や商品名を使ったギャグなどが大人の事情で修正されてしまったことによって勢いが削がれてしまうといったことがあるなど、基準がない故に修正したからといって必ずしも良い評価を得るとは限らない。
ネット上の文章は、自分が運営しているメディアであれば修正し放題である(SNSは知らないが、Xならリプライをぶら下げて修正ないし訂正できる)。紙に印刷していないという強みが遺憾なく発揮されており、最初に書いたことよりもっといいことを思いつけばどんどん修正していける
このブログも後になってもっといいことを思いついたらしれっと修正しているようなことがある。基本的に(自分が思う)元の良さを殺さないように、より内容の充実を図る方向に修正していくが、ごくたまにごっそり入れ替えてしまうときもあるし、結論を変えてしまったりすることもある。じつは、一つ前の記事も後半部分はごっそり入れ替えている。
僕はどうも夜に文章を書くと脳が疲れて抑制が効かなくなるのか攻撃的になってしまうところがあり、そんな状態の文章なのにも関わらず、えいやと出してしまうということがある。しかし、翌朝になって「やっぱりやりすぎた」と反省して、もう少しマシな話題に変えたり、表現を柔らかくするように修正するということはこれまで何度もあった。こういうときは「よりよく」なっているものだと信じたいところである。
訂正

先ほども言ったように、修正はイチを膨らませる、ないしはイチに満たなかったものをイチに近づける行為であり、外的な力が持ち込まれなくとも、自身の判断でそれを行うことができるという、内的な要素をもっている行為である。一方で訂正はマイナスをゼロにする行為であるといえる。そして、それは自分で気づくこともあるけれど、外から指摘されることでなされることも多い。訂正とは外からの力を受け入れる行為なのである。
……いかなる共同体も、内部の正しさに閉じこもり、外部からの参加を排除したままでは滅びる。クリプキ(引用注:1940年生まれのアメリカの哲学者。『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本を著した)はここで、プレイヤーの誤りを「訂正する」というかたちで、外部を内部に取り込む論理について語っているのだ。
東浩紀『訂正可能性の哲学』p.61
訂正されることがらには正解というものがあって、たとえば計算が間違っていたり、年号が間違っていたり、漢字が間違っていたりと、客観的にこうだといわれている正しさが基準として存在している。そして、それから外れてしまっているものを客観的な正しさの基準に引きつけるという行為が訂正である。では、この客観的な正しさの基準とはなんだ?クリプキが提出した「クワス算」を主張する懐疑論者によってその基準は揺さぶられる。われわれは当たり前に行われている加算(プラス)すらも満足に説明できないのである。
……たとえば加算という基礎的な算術を考えてみる。あなたがいままで、「+」という記号を用いてその算術を支障なく遂行してきた。
そこでいま「68+57」という数式に出会ったとする。それはあなたが出会ったことのない数式だった。(中略)「はじめての計算」でも、あなたはなんらかの答えを返すことができる。それが加算の「規則」を知っているということだからである。
というわけで、あなたは「125」と答えを返す。ところがクリプキはつぎのような懐疑論者を連れてくる。
懐疑論者はあなたに対して、「125」ではなく「5」と答えるべきだったと主張する。前掲書、p.51
ここで登場した懐疑論者は東浩紀の論に従えば、次のようなことを主張する。
・あなたがこれまで「+」だと思っていた記号は実は「プラス」ではなく、よく似た「クワス」だった
・「クワス」という演算では、ある地点までの答えは「プラス」と同じだが、125を超えたらそれは5になる
・あなたは今まで加算された結果が125以上の計算をしてこなかったから、これに気づかなかっただけで、これまでずっと「クワス」算をしていた
東の言葉を借りればこの懐疑論者の主張は「バカげている」が、われわれはこれに反論することができないという。「反論のためには、あなたが「+」という記号で、それまでずっとクワス算ではなく加算を意味していたことを証明」(前掲書、p.52)しないといけない。しかしこれはできない。
加算とはなにか、別の方法で説明すればいいと考えるかもしれない。たとえば、自分にとって「+」の記号は、片方の数について指を折りながら1からその数になるまでを数え、続けてもうひとつの数をそれに加えるかたちで最後まで数えて、それで最後に到達した数を答えとすることを意味していた。
(中略)
……ところがクリプキによれば、懐疑論者はそのような反論に対しても、さきほどとまったく同じ理屈で再反論を返すことができる。いわく、あなたがいままで行ってきたのはじつは数えること(カウント)ではなく、それとそっくりな「クワウント」という別の作業で、(中略)あなたは自分で指を折り曲げていたにもかかわらず、自分がカウントではなくクワウントの作業を行っていることに気がついていなかった、だから今回の答えはやはり「5」になるべきなのだと。前掲書、p.53
こうして、クリプキが登場させた懐疑論者はバカげた屁理屈でいくらでも反論を試みることができる。これに対し、「ぼくたちは原理的に、自分がいま加算を行なっているということを証明することができない」(前掲書、p.53)と東はいう。ならば訂正という行為が参照する客観的な正解というものだって、決して絶対的なものではなく、いくらでもその客観的な正解(とされているもの)自体が訂正されうるものであることを示している。
クリプキはつぎのように記している。「なにかの言葉でなにかを意味するといったようなことはありえない。新しい言葉の適用ひとつひとつが暗闇の中の跳躍であり、どのような現在の意図も、これから選択するかもしれないいかなる行為とでも調和するように解釈することができるのである」
この主張はおそろしく破壊的である。なぜならばそれは、規則も意味も本当は実在せず、現在の行為を支えているはずの規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に素行的に書き換えることができるということを意味してしまっているからだ。前掲書、p.54(引用にあたって傍点削除)
昔はこれでよしとされていたことや、別に「よい」とはおもわれていなかったけれど黙認されていたようなことが後に掘り起こされ、それまでの人物や企業、国家などの評判が訂正されるといったことは別に今に始まったことではないだろう。当時はそうだったけど、今は違うといったふうに、われわれを取り巻く世界のルール(あるいは常識)はどんどん書き換わっている。
マイナスをゼロにするのが訂正だと書いたが、たとえば、名優と称えられた人の不祥事が掘り起こされたとして、「それまでこの人を名優として称えていたこと」をマイナスの歴史であると捉えれば、それがなくなったことでゼロになったといえるだろう。そして、このとき、マイナスから移動した先のゼロはもはや元のゼロではない。参照点という名の常識が変わっているからである。
正しさをもって誤りを直すのが訂正であるが、その正しささえも揺らいでいるとすれば、われわれはいったいどうすればいいのだろう。月並みな感想でしかないが、それはもう絶えず訂正し続けるということしかないだろう。
変化してゆくことを嫌って揺るがないものを求めた先に、これこそ絶対的な真理だ!とおもってたどり着いた先にあるのは、結局「世界とは相対的なものである」という絶対的なルールだった、というのがオチであろう。
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参考文献
・東浩紀『訂正可能性の哲学』ゲンロン叢書
・野村茂夫『ビギナーズクラシックス 中国の古典 老子・荘子』









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