0108 「自由」と「勝手」

百汁百菜

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……「でもね、メニューにせよ男にせよ、ほかの何かにせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初からあらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふり・・をしているだけかもしれない。自由意志なんて、ただの思い込みかもしれない。ときどきそう思うよ」

村上春樹『1Q84 BOOK1』p.344 新潮社

 村上春樹の小説、『1Q84』の主人公の一人、青豆は友達のあゆみとの食事の席でこのようにもらした。信教の自由、職業選択の自由、表現の自由、居住の自由、食事の自由、交際の自由……われわれはありとあらゆる「自由」に恵まれ、それらを謳歌しているように感じているけれど、そもそも「自由」ってなんだ? 本当に「自由」なんてものが存在するのか? と人は考えずにはいられない。
 とうに生まれや環境によって、人生のスタートラインが定められていることに人々は気づいてしまっている。そして、どれだけ自由意志をはたらかせようとも御しきれないものがあり、叶わないことだってあることを、人は人生の中で気付かされていく。
 また、「自由にしていいよ」といわれたからといって、人は自由に振る舞うことなんてできない。むしろ「自由」であることに戸惑って身動きが取れなくなってしまうから、進む道を制限してくれるレールを敷いて欲しいと思うし、誰かにそのレールの乗り方、進み方を導いて欲しいとも思うはずだ。
 村上春樹は青豆のセリフに託して自由意志への疑義を呈したわけであるが、その考えは河合隼雄との対談の中でもあらわれている。やや長いが引用する。

村上 ……でもね、この前どこかで調査をやっていて、それを読んだんですが、日本人に好きな言葉を選ばせると、「自由」というのは四番目か五番目くらいなんですってね。僕はなんといっても「自由」がいちばんなんですが、日本人のいちばん好きな言葉は「忍耐」とか「努力」なんですよね。
河合 ははは、それはそうでしょう。やはり日本は「忍」が第一やないですか。僕なんか忍従ばかりやってます。僕は平成の忍者です(笑)。
村上 でもそういう意味では、日本人というのは本当に自由を求めているのだろうかって僕はときどき疑問に思ってしまうんですよね。とくにオウムの人たちをインタビューしていると、それを実感しました。
河合 いや、日本人にはまだ自由というのは理解しにくいでしょう。「勝手」ちゅうのはみんな好きやけど。自由というのは恐ろしいですよ。
村上 だからオウムの人たちに「飛び出して一人で自由にやりなさい」と言っても、ほとんどの人はそれに耐えきれないんじゃないかという印象を持ちました。みんな多かれ少なかれ「指示待ち」状態なんです。どっかから指示が来るのを待っている。指示がないというのは「自由な状態」ではなくて、彼らにとってはあくまで暫定的な状態なんです。
河合 それこそフロムやないけど、『自由からの逃走』やね。だから小さいときから、自由というのはどれほど素晴らしいことでどれほど怖いことかというのを教育することが、教育の基本なんですよ。

村上春樹『「悪」を抱えて生きる』引用は『村上春樹全作品1990〜2000 ⑦』p.231-232より。

 日本人には忍ぶ、耐えることが美徳であるという精神性があり、外から持ち込まれた「自由」という概念はあまり馴染まない。指示がない状態を「自由」とは捉えずに、じっとしていることを選んだりもする。その一方で、「勝手」であることは好きだと河合隼雄はいう。「自由にしていい」といわれるとうろたえるが、「勝手にしやがれ」といわれると進んで飛び出していこうとするのが日本人だというわけだ。

「勝手」というのは「他人のことはかまわないで、自分だけに都合がよいように振る舞うこと。」(引用:コトバンク デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/勝手-464437)である。普段から他人の目を気にして思うままに振る舞えないという抑圧感を抱えている日本人が、その他人の目から解放され、自分の思うがままに、自分の都合だけを考えて動けるとなれば、「勝手」を好むようになるのも当然といえよう。
 ここで、「のびのびと、自由にやってみよう」といわれたとき、「自由」にやるのではなく、「勝手」にやってしまう人がいる。自分だけが気持ちのよいように振る舞い、その行いが周囲にどんな影響を与えるか、周囲からどんな目で見られるかというのをいっさい斟酌しんしゃくしないのである。
 「勝手にしやがれ」といわれると、普段自分を縛り付けるくびきから解放され、また「かくあらねばならぬ」といった規範からも逃れられるような感覚がある。だが、この感覚を「自由」に持ち込んでしまえば齟齬そごが起きる。「自由」は「勝手」のように人々を軛から解放するようなものではないからである。むしろ、与えられた制約のなかでいかに振る舞うかを規定するのが、人々が普段感じている「自由」なのではないか。
 だが、人はついつい「自由」とは何かを知らないままに、「自由にやってみよう」と聞けば、免罪符を得たと勘違いして「勝手」に振る舞ってしまうのである。

……誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はいない。(中略)或る範囲内においては自由であると信じて居る。これがために責任、無責任、自負、後悔、賞讃、非難等の念が起ってくるのである。しかしこの或る範囲内ということを今少しく詳しく考えて見よう。凡て外界の事物に属する者は我々はこれを自由に支配することはできぬ。自己の身体すらもどこまでも自由に取扱うことができるとはいわれない。

西田幾多郎『善の研究』p.147

 心臓を動かしているのは自分の自由な意志によってであろうか? 内臓の数々に自由な意志をもって命じて消化を促進させることは可能であろうか? また、子が親を選んで生まれてくることは可能であろうか?(できると信じている人もいるが……) 教室の前の席に座る誰かを選ぶことができるか? 植物に命じて今すぐ花を咲かせることができるのか?……
 人がどれだけ自由(と思える)意志をもっていたとしても、それを世界の隅々まで浸透させることはできないし、世界は自由意志を行使できないものに溢れている。再び西田幾多郎の『善の研究』から引く。

……我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるというまでである、実際の欲求はその時に与えられるのである、(中略)普通は欲求の外に超然たる自己があって自由に動機を決定するようにいうのであるが、斯の如き神秘力のないのはいうまでもなく、もしかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。

前掲書、p.49

続けて引用する。

……自由にできるというのは単に自己の意識現象である。しかし自己の意識内の現象とても、我々は新に観念を作り出す自由も持たず、また一度経験した事といつでも呼び起す自由すらも持たない。

前掲書、p.148

 たとえば文房具売り場に行けば所狭しとペンが並んでいる。僕たちはこの中から「自由にペンを選ぶことができる」が、それはそこに置かれているペンの限りにおいて、である。「自由」に指の形に沿ったペンを選ぶことなどできないし、そこにないインクの色を所望したところでそれを生み出せるわけでもない。また、「これまでにないペンを」というお題が出たところで、既存のペンの枠からはみ出たものを考え出せる人はそう多くない。
 また、競泳において「自由形」という種目がある。これはどんな泳法だって構わないはずなのに、結局みんなクロールを選んで泳ぐ。これが結局一番速いとされているからだ。「自由」といわれる中でもセオリーはある。
 人は自分が考えられるうちでの「自由」しか考えることができない。いつでも「自由」に欲求を取り出して取り扱うことなんてできない。ただ、可能性の範疇でだけ、「自由」を行使することができる。もうこの時点で制約がかかってしまっているのだ。だが、その制約の中にあっても、自分で決めたことならば、人は「自由」であると感じることができる。一方、自分の意志のはたらいていないところで決まったものは強迫のように感じられてしまうのである。西田はいう。

 それで意識の自由というのは、自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである。我々は知識の進むと共に益々自由の人となることができる。人は他より制せられ圧せられてもこれを知るが故に、この抑圧以外に脱して居るのである。更に進んでよくその已むを得ぜる所以を自得すれば、抑圧がかえって自己の自由となる。

前掲書、p.153

 自己というものがいったい何によって制約されているのか、自己を取り囲むモノや仕組みがなぜ今のような形をとっているのか、言葉が決めてしまった世界の限界などなど、それら「自由」を束縛する種々の制約をよく知り、そしてそれらが「已むを得」ない事情を抱えていることを了解することによって、その制約、抑圧の中で十全な自由を謳歌することができるようになるというのだ。
 僕らは「自由」な振る舞いのことを「勝手」な振る舞いとはき違えてはいないだろうか。「自由」には制約があり、そこには他者からの目線と他者への気配りが含まれる。「自由」は他者の領域を侵さない限りで、という但し書きがついている。しかし「勝手」はどうだ。さきに述べたように、種々の制約を無視して自分の都合のみを優先し、気ままに振る舞うさまが「勝手」である。傍若無人なさまを他者が許容するはずもなければ、その行いによってその人自身が認められるわけもない。
 結局は何かしらの制約(ルール)の上で、セオリーをなぞりながら「自由」を発揮するということになる。言葉によってか、音によってか、色によってか、映像によってかは色々ある。未だ僕らはテレパシーを送りあえないから、他人の頭の中に直接メッセージを届けることはできていない。今ある表現方法を使って他者にメッセージを届けなければならない。不条理ギャグに思える漫画や映像だって、結局は僕らが親しんでいる媒体を離れてはいない。ならばせめて、僕らを縛る制約、抑圧の枠のはしっこを目指していこう。そうすることでようやく「自由」の幅は広げられる。

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2026/05/12分

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参考文献

・西田幾多郎『善の研究』岩波文庫
・村上春樹『1Q84 BOOK1』新潮社

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