「これは自分のことを言っている(書いている)」とおもえるような小説や哲学書、宗教書に出会ったとき、僕は孤独でなかったと安心する。同じようなことを考えている人がほかにいるんだと連帯感を覚える。そしてそれらの言葉を取り入れることで僕はまた、自分と世界を語るための〈語彙〉を獲得する。
ここでいう〈語彙〉とは文字通りの語彙だけではない。自身の経験の中で得た人生訓や、他人との対話の中で得られた思考体系、ストーリーなどから得られた人生の疑似体験も含まれる。要するに、自身の人生を自分で語るために必要な言葉や経験、思考法のレパートリーのことであり、それをここでは〈語彙〉と呼ぶことにする。
この〈語彙〉を蓄えるということは、自分のこれまでとこれからを豊かな言葉で語れるようになるということであり、自己をいかようにでも編集できる可能性を広げるということである。
多少道から逸れたり、思った通りに事が進まなくなったとしても、豊かな〈語彙〉があれば再び自身を編み直してゆける。自身の考えが広く受け入れられなかったとしても、同じような考えを持つ人がいると知っておくだけで励ましになる。また、〈語彙〉の多さは絶対的と思い込んでいた価値観にゆさぶりをかけて相対的なものに変えてしまう。それまで依拠していた価値観では間違いであったかもしれない選択が、別の価値観では間違っていないというようなことは往々にしてある。
だが〈語彙〉が少ないと、世界はスキマだらけになってしまう。人はこれまでそのスキマにあるもの、つまり言葉によって分節できなかったり、説明のつかないものを「タブー」として遠ざけてきた。それは世界のどこにも属さないものとして取り扱われ、また穢らわしいものとみなされてきた。
〈語彙〉の少なさは単に可能性を狭めるだけではない。自身の中にある、言葉にならないまま漂っているなにかを説明しようとせずにタブー視してしまうことによって、他人はおろか自分でも触れられないものになってしまうおそれがある。
そんなタブーをタブーと考えていないような人はそのままでいい。だが、自身のこれまでの経験、今置かれている状況、これから進む道を考える中で積もり積もった、言葉にならないまま漂っているなにかに意味や説明を与えられないことはしばしば苦しみを生む。
そして、そのタブーは説明がつかないのをいいことに大きく膨れ上がり、うっかり触れてしまったら防衛反応がおこって、ときに他人も自分も傷つける。
だが、そうした苦しみは自身を自分で語るための〈語彙〉があれば急速に力を失っていく。説明が与えられたことによってそのタブーは既知のものとなり、枠(あるいは概念という檻)が与えられることによってそれ以上暴れまわるということがなくなるからである。
人間の行動や思考はすべからく模倣である……ということは前にも書いた。そして〈語彙〉を蓄えるということは模倣の連続である。他者の考えや言葉、生み出されたストーリーラインなどを取り入れ、自分の辞書に加えたり、自分の言葉に変換していく。こうした編集作業なしに〈語彙〉は広がらない。
よく「自分の言葉で語れ」というようなことが言われる。だがこれは字面通り受け止めるとよくない結果を招く。まったくの模倣なしに「自分の言葉で語る」ことなんてできないし、限りある手持ちの〈語彙〉だけで語ろうとすれば、その人がもともと持っていた信念をより強化する事柄しか出てこず、考えに偏りがあった場合それを加速させてしまうことにもなりかねない。語りうる言葉の限界は、その人の世界の限界になってしまうのだ。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」といった。ここでの「言語」は、われわれが普段使っている自然言語のことではなく、ウィトゲンシュタインがその存在を措定した〈究極の言語〉のことである。
この〈究極の言語〉とは、「最大限広く捉えられた「語りうること」すべてを逐一明確に語ることができる言語」(古田徹也『シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』p.98)であり、「文字通りありとあらゆる可能性を、命題という像において、これ以上なくきめ細かく明晰なかたちでこしらえることができる言語」(前掲書、p.98〜99)のことである。ウィトゲンシュタインはこうしたありとあらゆる可能性を語りうる〈究極の言語〉を措定することによって、その向こうにある「語りえないもの」はなにかを示そうとした。
われわれが普段使っている言葉(自然言語)は〈究極の言語〉には程遠く、とうてい語りうることすべてに対して、最大限きめ細やかに語れるような代物ではない。己の身に感じた危機も、すごいものを見たときの興奮を伝える感想も「ヤバい」の一語で括られてしまうし、酸いも甘いも辛いも苦いもそれがその人にとって好ましい味わいであれば「うまい」で大雑把に表してしまえる。なにが「うまい」のか、人が細部に立ち入ってそれを説明することはむずかしい。味と香りも厳密に区別できないくらいなのだから。そして胸に湧き上がってくる感動はなんでも「エモい」。黄昏時の移りゆく空の色も、お気に入りのキャラクターが成長して登場したときも、自身が悲願を達成したときも「エモい」のだ。
自身の今の状況を「エモい」と表現することによって、「いま私は語りえないほどの万感の思いに浸っている」ことを表明することはできても、他人はその内部には立ち入ることはできないし、本人にだってそれを取り出すことはできないでいる。もうそれは「エモい」として処理するしかなく、あまりの部分は泣く泣く捨てることになる。
こうして人は語りうる限界にぶち当たる。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」というのは〈究極の言語〉でなくとも、自然言語においてもあてはまる。人は己の語彙にないことを感じることはできても、それについて考えることはできない。そして語彙にないところにあるものは世界にないものとして扱わざるをえない。いや、そもそも語彙にないのだから扱うもなにもないのだが。
僕はまず、「ヤバい」「うまい」「エモい」で済ませる前に、もうちょっとだけ考えてみないか、ということをいいたい。もう一歩だけ踏み出して、何か自分が感じたことに近い言葉がないかを探してみるのである。そして、それを探るためには〈語彙〉の豊かさが欠かせない。だからとにかくインプットすることである。本を読むでもいいし、ドラマ・特撮やアニメを見るでもいい。僕は本を読むのが覿面に効果があると思っているが、まあどれでもやりやすいものから始めればいい。いきなり難しいのはダメだ。インプットするにも、各メディア毎のお約束や作法というものがあるから、まずはそれに馴染むことから始めていかないといけない。
そうしてインプットを繰り返し、その中で「これは自分のことだ」と思えるようなものを探していく。 しかし、ただ見たり聞いたりするだけではすぐに忘れてしまう(少なくとも僕は)。なので、自分の心に引っかかった部分をメモ書きするなり、コピーをとっておくのである。コピーといっても、コピペはよくない。たとえば、紙の本の内容を残しておこうと思うのであれば、ノートやメモ帳(これらは電子のものでもよい)に一部を抜き書きするといった形でのコピーがいい。出典を記録しておくことも忘れずに。また写真やスクショはおすすめしない。あまりにも簡単すぎてそれらを撮ったことすら忘れてしまうから。
あまり「役に立つ」といったような功利的な考えは好まないが、こうしたインプットは確かに自分の語りうる範囲を広げてくれるし、ものを考えるときの材料が単純に増えていくわけだから「役に立つ」。何のインプットもなしに、徒手空拳で快刀乱麻を断つ……というのを妄想してみるのも悪くはないだろうけれど、こじれた物事を一層こじらせるのがオチである。
〈語彙〉を広げたければ、ちまちまと積み重ねていくしかない。「これは自分のことを言っている(書いている)」ものに出会えたときの喜びがあると思えば、このちまちまとした積み重ねは十分やっていけそうなものなんだけれど、それよりもっと激しく脳を刺激するものに溢れている今、難しくなっているのかもしれない。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/07/01分(上)
キャベツ・ナス・油揚げの味噌汁
2色にんじんのにんじんしりしり
きゅうりスティック
2026/07/03分(下)
小松菜・ぶなしめじの味噌汁
油揚げ・玉ねぎ・ししとうの卵とじ
ちくわのきゅうり詰め
にんじんしりしりの余り
参考文献
・古田徹也『シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』角川選書









コメント