0135 性のはじまり、死のはじまり

百汁百菜

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「生」の反対は?と聞かれればたいていの人が「死」であると答えるだろう。空海は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という言葉を残したが、これは生の始まりも死の終わりのときも、人はけっしてそれらを知ることも経験することもできないということを表しており、生きとし生けるものはすべて生と死とが対置された「あいだ」にいることを示している。
『荘子』では、荘子が妻の死に際して次のようなことをいっている。

 芒笏ぼうこつの間に雑わり、変じて気有り、気変じて形有り、形変じて生あり、今又変じて死に之く。是れ相与に春秋冬夏四時の行を為せるなり。

 何もない、ぼんやりとした〈芒笏〉空間にあらゆるものが混沌と混じりあっていた。それが変化して陰陽の二つの気となり、気が変化して形をもち、形が変化して人間との生命をもち、いままた変化して、その本来のところである死に帰ってゆく。これは、春夏秋冬の四季の循環と同じ繰り返しではないか。

野村茂夫『ビギナーズクラシック 中国の古典 老子・荘子』p.230〜231より抜粋

荘子は死こそが「本来のところ」であると考えていた。生きていたものが死ぬことによってぼんやりとした空間に渦巻く混沌へと還り、そこからまた陰陽の気が生じてふたたび生を享けるという考えを持っていたのである。
 ここでいう「気」というものは物質、そして分子であるといえば納得がいく。我々の身体を作っている物質はこの地球に満ちている、かつて誰かを構成していた物質なのである。その誰かが死に、地球に物質として還り、それが巡り巡っていまふたたび我々の身体となっている……そう考えればこうした「気」の巡りによって生死があるという考えは納得できるし、その先見性と卓見ぶりには目を瞠るほかない。

 物質の循環という目線でいえば、誰かの死によって我々の生は支えられている(何かを「食べる」ことで生き永らえるということは、必ずその前に他者の死がある)というのは確かであり、生と死が対になっているのは間違いないだろう。だが、生物の個体という目線から眺めたとき、生には必ずしも死が伴ってはいなかったという。むしろ、「生せい」はせいでも、「性せい」のほうが死に強く結びついているというのである。

 中村桂子は『生命誌とは何か』(文庫化にあたって改題。改題前は『生命誌の世界』)において、次のように述べている。

 つまり、生あるところに必ず死があるという常識は、私たちが二倍体細胞(引用注:のちに説明する)からできた多細胞だからです。本来、生には死は伴っていなかった。性との組み合わせで登場したのが死なのです。逆のいい方をするなら死をもつ二倍体細胞がなんとかして命をつないでいこうとして工夫したのが性だといってもよいかもしれません。

中村桂子『生命誌とは何か』p.124 太字部分は引用者による強調。

 細胞には原核細胞、一倍体細胞、二倍体細胞というものが存在する。それぞれ簡略に説明すると以下の通りである。

・原核細胞……核やミトコンドリアなどを持たない、原初的な単細胞。非常に小さい。バクテリアや古細菌など。

・一倍体細胞……核を持つ「真核細胞」のうち、同じ種類の染色体を1本ずつ持っている細胞で、基本的に一つの細胞で単細胞生物を構成する。原核細胞よりは大きいがそれでもまだ小さい。酵母などの菌類に加え、アメーバなどもこれにあたる。

・二倍体細胞……「真核細胞」のうち、同じ種類の染色体を2本ずつ持っている細胞。細胞同士が結合してそれらの間に連絡通路といえるものが開かれ、互いに情報をやり取りするようになった(多細胞化)。ほとんどの動植物はこの二倍体細胞で構成された二倍体生物である。

 原核細胞ないし一倍体細胞の段階では死の概念はなかった。というのも、無性生殖によって自己のコピーを生み出しており、個体という概念をもっていないからである。増殖できる環境にある限り、自己のコピーを残し続けることができるという意味において、死は存在しなかったのだ(環境が悪ければ増殖がやみ、細胞が死んでしまうということはある)。
 そんな死のない世界に死の概念をもたらしたのが、性を二つに分けて有性生殖を行うようになった二倍体細胞である。性を分けるだけにとどまらず、個体の死を伴う形で種を存続させようとする生き方をなぜ選んだのかという問いに対し、明確な回答はいまだ得られていないというが、まず考えられる理由としては「多様化」のためではないかと中村はいう(前掲書、p.124〜125)。

 多様化のはたらきとして、中村は次の三つを挙げる。

①新しいものを産み出す。
②環境変化などに対して生き残れる可能性が高まる。
③有害なものを捨てる。

 無性生殖では基本的に同じ細胞をコピーしていくだけであって、ごくごくたまにある複製エラーによってしか多様化は望めなかった(遺伝子の水平伝播によって他の細胞の遺伝情報の一部を自身に組み込むということはある)。つまり、無性生殖ではゆっくりとしか多様化が進まない。なので新しいものはなかなか生まれず、環境変化に対応できず滅びる可能性があり、有害な遺伝子変化もそのままコピーしてしまう。
 だが、有性生殖によって性を二つに分け、計り知れないほどの遺伝情報の組み合わせを試行できるようにすればどうなるだろう。
 二倍体細胞だったものをわざわざ減数分裂によって一倍体に戻し、それらをマッチングさせることで再び二倍体に再生するという回りくどい方法を取るのが有性生殖である。相手を必要とする分、無性生殖よりもよっぽど面倒だと中村も言っている(p.124)。だがその面倒な手続きを経ることによって、無性生殖のときとは比べ物にならないほどの多様化を成し遂げた。 

……性の役割としてそれ以上に興味深いのは、単なる多様化ではなく、そこで生じる個体が、それまでにないまったく新しい組み合わせのゲノムをもつということではないでしょうか。とくにこの視点は人間の場合生かされるように思います。一倍体細胞の段階では「個」の概念はもてません。その中でのゲノムのあり様、また細胞の存続のしかたは、DNAとして存続すればそれでよいという形になっています。しかし、有性生殖ででき上がった受精卵から誕生するのは、まさに個体であり、しかもそれは発生の過程まで含めるなら、他には類例のない、まさに唯一無二の存在となります。自己創出系という言葉にふさわしい存在です。

前掲書、p.140

 性の登場によって、生まれてくる子は親の遺伝情報を半分ずつ受け継いだ「個性」をもつようになり、唯一無二の存在となることでようやく生物は「個体」という概念を獲得した。
 だがその個体もいずれ細胞分裂に限界をきたし、老いて斃たおれてゆく。無性生殖で殖ふえる単細胞生物においては、個が斃れたとしても、同じ遺伝情報を持つコピーが多数存在するからそれは「死んだ」とはいえない。しかし、二倍体細胞で構成された個体の場合はどうか。その個が斃れれば、同じ個体は二つとして存在しない(一卵性双生児であっても、育ちゆく環境によってそれぞれの個性を獲得してゆくはずである)。ここでついに「死」が意識されるようになる。

『聖書』によれば、はじめの人間はアダムひとりであった。だが神は「人は独りでいるのはよくない」と、アダムの肋骨からもう一人の人間、イヴを生み出した。この段階ではまだアダムとイヴに性の概念はないどころか、アダムの肋骨から生まれたイヴはアダムのコピーであるといえる。しかし悪魔なるものが蛇の姿をとってアダムとイヴを誘惑する。
 蛇の誘いに乗って知恵の実を口にしたイヴはアダムにもこれを勧める。ここでついに二人は裸でいることの恥ずかしさに目覚める。性のはじまりである。性が生まれたということは、死も生まれたということである。

 死ぬことは人間の悲劇であるかのように思われている。それをアダムとイヴの過ちに帰属させたのが『聖書』の教えである。神の言いつけを守らなかったから、人は死ぬ運命を背負わされたということか。人はそんな逃れられない死の運命を克服したいと希こいねがってきた。種々の宗教が死ののちに迎えられる天上の世界(あるいは地の底の地獄)を示して死への恐怖を和らげ、ときに煽ったりもした。
 死を克服するには一つになるしかないという考えも見られる。神と自己の合一、あるいは生きとし生けるすべての他者との合一である。個を超越して全に溶ける……個をなくして死の概念をなくし、誰も苦しまなくてよい世界を願う人物が創作においては度々登場してきた。僕が生まれてからの創作物で目にしたものといえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウや『コードギアス 反逆のルルーシュ』のシャルル・ジ・ブリタニアなどがそうである。
 さながら人間を一倍体細胞に差し戻す、アメーバへ回帰するかのごときこれらの考えは「たとえ苦しくても個を生きる」といった考えによって打ち砕かれてきた。我々は二倍体細胞を持つ多細胞生物として誕生した以上、多様化こそが宿命なのである。しかし、人はその宿命を重荷に感じて、下ろしてしまいたいという考えに駆られる。こうして考えてみれば、人は死を恐れているというよりも、性の分化によってもたらされた多様化のほうを恐れているようにもおもえてくる。

 国家や組織はしばしば多様性を無視して、同じ価値観、行動規範をもった「機械のような」人間を要求する一方で、多様性に満ち満ちた社会においては、統一的な社会規範や見解を求める声が生じてくる。
 2026年のいま、僕にはリベラルといわれる人々こそ多様性をもっとも呪っているのではないかとおもえてしょうがない。彼らは口では多様性を叫びながらも、実際に頼ろうとしているのはポリティカル・コレクトネスといった権力的な構造であり、言っていることとやっていることの矛盾がそこにある。その矛盾に人々が気づきはじめたのか、リベラル勢力はいま大きく力を落としている。
 こうした人類の動きを見ていると、死についてもちろん恐れているが、やはり多様性についても強く恐れているように見えてくる。人は(むろん、人だけではないだろうが)、それぞれに個性をもった他者との関わりが、怖くて怖くてしょうがないのである。

 中村桂子は『生命誌とは何か』の最後の章において、生命のもつ特徴を七つ挙げた上で次のように語っている。

・多様だが共通、共通だが多様
・安定だが変化し、変化するが安定
・巧妙、精密だが遊びがある
・偶然が必然となり、必然の中に偶然がある
・合理的だがムダがある
・精巧なプランが積み上げ方式でつくられる
・正常と異常に明確な境はない
 こうして並べてみると、お互いに矛盾することを抱え込んでいます。しかし、それだからこそダイナミズムが保たれているといえます。矛盾に満ちたダイナミズムこそ生きものを生きものらしくしているのです。
(中略)
 矛盾に満ちたダイナミズム。これを楽しむことができる社会づくりをしたいというのが、生きものの歴史を追ってきた結果得た気持ちです。

前掲書、p.255〜256

 矛盾があればスッキリさせたい、ノドにつかえたものをするっと飲み下したいというのが人間というものだろうが、その人間はすでに数々の矛盾を抱え込んだ生きもののひとつなのである。多様性を謳いながらも統一を求めるといったさまや、何か大きなものと一つになりたいと思ったところで個がそれを防ぐというのは、人間が矛盾を抱え込んだ存在だからこそ現れ出てくる営為である。
 人々のこうした逡巡の歴史は数々の知となって今の我々の前に積み上がっている。中村桂子はこうした知を、生命を基本に据えた「生命誌」として大胆に編集しようと試みている。御年90歳(2026年現在)とのことだが、AIが台頭している今まさに「生命誌」の考えが重要性を増しており、いっそう氏の発言には注目が集まることだろう。

 つくづく人間はかわいそうである。矛盾もそうだと気づかなければ矛盾でなかったのに、なまじそれを考えられるぐらいには頭が大きくなってしまった。
 数々の「かわいい」キャラクターが頭を大きくして描かれるのは、それが可愛らしさを喚起するだけでなく、どこかに頭ばっかりが大きくなってしまってかわいそうなことになってしまった人間の悲哀を抱え込んでいるからかもしれない。そう思えば、ちいかわやサンリオの人気も頷けるというものである。

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2026/07/22分(上)

ナス・オクラ・油揚げの味噌汁
バジルペーストのオムレツ
野沢菜昆布

2026/07/24分(下)
トマト・ナス・油揚げの味噌汁
きゅうりのわさび漬け
野沢菜昆布

参考文献

・中村桂子『生命誌とは何か』講談社学術文庫
・野村茂夫『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子』角川ソフィア文庫

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