村上春樹の小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の主人公、多崎つくるの「つくる」は、漢字で書けば「作」であると設定されている。これは名付けの際に、つくるの父親が「創」の字を充ててしまうと、なんだか大層で余計なものまで背負わせてしまうかもしれないと考えた結果、「作」のほうにしたといったことが作中では語られる。
確かに「作」のほうが、「創」よりもずっと身軽であるようにおもえる。「作」は日々の営みの中にある、料理や工作といった「作る」を想像させるが、「創」のほうはもっと大層な、それこそ世界をゼロからはじめるような「創る」を想像させる。そして、それは一部の宗教で措定されている神の業である。
いま人々は平気で「創作」といった言葉を使って「今までになかったものをつくる」ことを表しているが、ここで言われている「今までになかったもの」というのはその組み合わせのアイデアにあるのであって、神のごとく本当にゼロから何かを創りあげたわけではないだろう。人の営為はすべからく模倣なのである。そういう意味では、「創る」という行為を模倣して「作る」から「創作」というのかもしれない。「巨大」や「温暖」、「寒冷」のように同じような意味の漢字を重ねてその意味をより強く表現する語のようにみえて、「創作」を構成する「創」と「作」の間には隔たりがあるようにおもえる。
思い返せば僕も色々と「作った」ものである。幼稚園〜小学生の頃には、コピー用紙や厚紙、紙パックに段ボールでありとあらゆるおもちゃを自分で作ったものである。トミカだけは豊富に与えられたものの、それ以外のおもちゃ(とくになりきり玩具)をあまり与えられなかった僕は、テレビの前のヒーローになりきるために自分で作るしかなかったのである。そして、小学校高学年からはガンプラを作るようになり、これは今でも続いている(最近はあまり買っていないが)。
なければ自前で作ればいいという感覚はここで養われたのだろう。度々行っているDIYなんかも、この感覚が基になっているのは間違いない。
そしてたくさんの料理も作ってきた。病気の影響であまり台所に立てなくなった母(故人)に代わって台所に立つようになって12年余。数えきれないほどの料理をして、一時はスパイスにハマってこのブログにもたくさんのレシピを残した。
正直なところ、このブログにたくさんのレシピを投稿していたころは自分のやっていることが「作る」ではなく「創る」であるかのように勘違いしていたようにおもう。「まだこの世にない新しいものをつくりあげているんだ」という驕りがあった。だが、いつしか自分の行為はただの模倣にすぎず、人から人の間を通りすぎてゆく流れの中の一瞬に自分が参与しているにすぎないと感じるようになってからは、「創」っている感覚は消え、誰かにバトンを渡すために「作る」という意識が芽生えはじめた。
とある本にレシピをパクられてムキになっていたあの頃が懐かしい。まあ、その行為自体を許したわけではないが、その経験ではっと気付かされたことも確かである。
さて最後に「造る」である。自然の中からなにかを引き出してくるという仕事を、僕らは「造る」と呼んでいる。それはどういうことか。土井善晴は『一汁一菜でよいという提案』の中で次のように語っている。
料理を「作る」と書いても、「造る」とは書きません。「造る」という字をあてるのは酒や味噌の醸造であって、通常、人間が作り出すことのできないものにだけ「造る」とします。そして刺身だけは「お造り」という字を書く。その意味が刺身にはあるからです。それは、魚を神と信じ、魂はお返しして肉を恵みとしていただく、古代の人の心です。
土井善晴『一汁一菜でよいという提案』p.123〜124
酒も味噌も(もちろん醤油もだ)、菌のはたらきによって造られるのであって、人はその菌がはたらきやすい環境を整えるといった形でしか関わることができない。自然に対する謙虚さ、及ばなさへの敬意と畏怖が「造」の字にはある。
「造」の字を用いて、建物の構造や構造主義などといったりするほか、SFでは「人造人間」といったりもするが、いずれも結局は自然の摂理から逃れることはできないし、しょせん人の力は自然には及ばないことが「造」の字には現れている。人は自然界にないもの、自然の摂理から外れたものを「創る」ことはできない。
造形(造型)について、しばしば彫刻家は石の中や木の中にある形を引き出すと語る。新たに生み出す、創り出すのではなく、あくまで自然の中から引き出すのが人間の仕事なのである。
同じ「つくる」でも「作」「創」「造」でそれぞれ意味が異なっているのを見てきた。表音文字の文化圏にいる人々は、表音文字のほうが文化的に洗練されていると考えている人が少なくないようだが、こうした表意文字が持つ字そのものに宿る意味を見落としているようにおもえる。あの『銃・病原菌・鉄』を著したジャレド・ダイアモンドでさえ、その偏見からは逃れられなかった。とはいえ、我々も日々漢字に込められた意味をいちいち吟味して言葉を使ってはいない。
たとえば「穿つ」という言葉について、「穿」の字には「穴をあける」という意味があるのだから「物事を疑ってかかる」とか「ナナメに見る」というような意味は出てこないはずなのである。なのに「うたがう」と「うがつ」の音が似ているからとか、大体そんな理由で、「穿つ」の意味はだんだんズレていっている。漢字の意味を考えれば自明なことを考えなくなっている。そうおもえば、表音文字のほうが洗練されているというのも一定の納得感はある。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/07/27分(上)
トマト・オクラ・油揚げの味噌汁
ナスとベーコンの炒め物
きゅうりのわさび漬け
2026/07/28分(下)
昔よく食べた冷凍食品をイメージして作ったドライカレー
もやし・オクラ・トマトのチキンスープ
参考文献
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社→新潮文庫
・村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋










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