僕は基本的に味に対する好き嫌いはない。何かと嫌われがちな酸味や苦味は味に深みを与えるものであるから歓迎するほどだし、左党でありながら砂糖だって好む。
甘党の対として辛党(この場合は「酒飲み・酒好き」の意味であって、辛いモノ好きのことではない)というように、酒飲みは甘いモノを好まないという通念があるようにもおもえるが、まったくそんなことはないだろう。祖父も日本酒と饅頭をこよなく愛していたというし、その血は僕にも濃く流れている。
その一方で辛いモノ(今度は火を吹くほうの「辛い」だ)も人並み以上には食べられるし、むしろ愛好している。カレールーは辛口以上の辛さしか買わないし、甘口カレーは食えと言われれば食うが、別にわざわざ選んで食べたりしない。塩辛過ぎる(ようするに、「鹹い」味)のだけはちょっと勘弁してほしい、というぐらいか。
食べ物の好き嫌いがなさすぎて、誰かと食事に行く際はいつも合わせる側になる。人数が増えるごとに好き嫌いのレイヤーが重なっていって、だんだんと行ける店が絞られていくわけだが、こうして他人の好き嫌いを眺めていると、「これぐらい普通だよ」といわれる程度の好き嫌いがある人でも、僕の目から見れば「え、それ食べないの?」といったふうに見えてしまう。まあ、虫を主要なタンパク源としている地域の人々からすれば、虫を食べない僕だってそういうふうに見えているだろうけれど。
こんなふうに食べ物の好き嫌いは少ないが、人の好き嫌いはハッキリしている。子どもの頃から僕は何かと目をつけられがちだったから、「みんななかよく」なんて言葉は一切信じていなかった。
(あくまで僕目線では)何もしていないのに、色々とちょっかいをかけられたりするのを繰り返していれば、自然と人間に対する好き嫌いというのはハッキリとしてくるもので、同級生だけでなく大人も当然その対象となり、嫌いな相手はとことん睨みつけるというよくない癖までついてしまった(もしやそれが原因か?卵が先か、鶏が先かわからなくなってきたぞ)。
どう生きていたって万人から好かれることはないと悟った僕は、他人のことを「人はなにを考えてどう行動するのか」を観察するための対象として見るようになり、それは進路にも影響を与え、結果的にその習慣は僕を心理学部へと進学せしめた。このブログでいくつか展開している人間観察系記事もその延長線上にあるものだ。
こうして観察対象と見ているうちは、単に一つのサンプルとして扱うことができるから好き嫌いを超越した目線を獲得できる。嫌いなヤツがなんでそんな思考回路や行動規範を持っているのかをいちいち分析していけば、結局は環境の影響に加え、自己保身、現状維持など、ヒトが持つ本能的な欲求に沿ったものであることがわかってきて、「なんてかわいそうに」と同情はしないまでも、憐れみの心を持つことすらできるようになる。
とはいえ、嫌いなヤツに対する分析をいついかなる場合でも行い、憐れみの心を持っている余裕はない。仕事をするようになってからというもの、嫌いなタイプの人間に出くわす頻度は学生時代の頃とは比べ物にならないし、その質も大きく変わった。こんな僕に営業の仕事を割り振ったのは会社の采配ミスだと言いたいぐらいなもので、あっという間に僕は疲弊して、眠れなくなり、営業車の運転中に一歩間違えれば死ぬところまでいって退職を決意した。
それからはもう大学時代の友人と親族ぐらいしか関わりをもっていない。それ以上に広げたって僕にはいいことがないとわかったからだ。すでに関わりのある人間以外での、他人との付き合いの中ではもはや何も期待できない以上、興味関心は輪をかけて己の内側に向くようになり、さながら「井戸」を掘るかのように一人こもることが増えた。
こうして一人こもること数年、僕はようやく村上春樹に出会った。村上春樹の小説はまさに己の内に入っていく、「井戸」を掘っていくようなところがあり、『ねじまき鳥クロニクル』ではまさにそれが舞台装置の「井戸」として現れ、主人公の岡田亨はそこに潜って別の世界に「すり抜ける」。はじめに手に取ったのは『ノルウェイの森』だが、それから春樹ワールドに魅せられ、ここ2年ほどは断続的に読むようになった。そして、そんな村上春樹の小説も、好き嫌いが分かれるものであるようにおもう。
まず、村上春樹の作品は文壇および従来の純文学読者と、それ以外の一般読者との間で評価が二分されているという。加藤典洋の『村上春樹は、むずかしい』によれば、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の二度芥川賞の候補に推されながらも結局受賞を逃している。前者の選考の際に反対意見を提出したのは「文壇の大御所的な存在である長老作家の瀧井孝作」(p.2)であった。村上の小説の革新性に対し長老が否定的意見を出すだけであれば、まだこれも世の常だろうと一種の納得感があるものだが、村上がデビューしてから10年経ったころ、今度は大江健三郎や柄谷行人、蓮實重彦といった「反文壇的な戦後文学者、ポストモダン期の批評家たちが彼の最大の反対者として立ちふさがった」(同)というのである。
また、海外でも広く訳されている村上の小説だが、近隣アジア諸国の知識人、文学者の間ではまったく読まれていない一方で、大衆的な人気については獲得しているという(p.6)。
村上の小説は国内外を問わず、文壇や高度な読書人からは好かれていない(むしろ侮られている)一方で、大衆からは厚い支持を受けているといった構図がみられる。
とはいえ、いくら売れている作家だからといって、大衆みなが村上春樹を好きとは限らない。とくに性行動でキャラクターを示そうとする手法に、少なくない人が嫌悪感を示すだろう(一方で食事はたいてい「簡単な食事(サンドイッチや焼き魚など、簡単に作れるとは言っていない)」で済まされる)。
とにかく村上作品の登場人物は性行為をする。性に対してあまりにも剥き出しなのだ。プレイの内容や、二人がどうその時間を過ごしているかの描写もいちいち凝っており、読んでいるだけで目がクラクラしたことは一度や二度ではない。村上は性行為の描写を通して、人間なんてみんな一枚皮を剥いでしまえばこうも悍ましいところがある、ということを嫌というほど示してくる。
また、「それ書かなくていいだろ」という部分でも村上は書いてしまう。たとえば『1Q84』に登場するふかえりの胸の膨らみの描写。不揃いな乳房を持つ青豆との対比のためであろうとはいえ、ふかえりの見事に整ったそれを執拗なまでに描写する。しかもそれが数度繰り返されるのだ。読んでいる側からすれば辟易してくる。だが、人は他人の外見を見たとき、何かしらのチェックやジャッジを下しているはずであり、いざ言葉にしたら気持ち悪いのだが、言わないだけで誰もが考えている(キモい)ことを村上は文字に起こしただけにすぎない。
こうして、普段人が秘している部分を村上は文字にして表に引きずり出してしまう。本当は誰もが持っている一面でありながらも、できるだけそれを見ないように遠ざけてきた人にとっては、自分の見たくない一面を見せられているような気がして読んでいられないのではないだろうか。
また、村上はわからないものはわからないんだと正直に記述してしまうし、わからないものに対して遠回りした上で、結局それを有耶無耶にしてしまうところがある。本質をズバッと突くようなことはそうそう書かない。とにかく村上は小説の上で暗示するのだ。村上のこうした態度は、もっと直截的な言葉で何かを語って欲しい読者には耐えられないだろう。
しかし、加藤典洋が前掲書で村上のことを「戦う小説家」と評するように、実際は現実のことがらを喩として小説に持ち込んでいるのだが、どうも村上春樹の文章は、こうした現実との接続なしにスラスラと読めてしまうところがある。僕は村上春樹の文章をミネラルウォーターのようなものだとおもっている。スラスラと読めて、まるで水を飲み下すかのように身体に入っていくけれど、それを味わおうと思った瞬間、とたんに難しくなるからだ。まさに、『村上春樹は、むずかしい』のである。
ここまで村上春樹が嫌われるような要因について書いてきたが、結局僕はそれでも村上の作品には魅せられてしまっており、いずれ全作品を読破することになるだろうとおもっている。結局村上作品を読んでいると、「これは自分のことを書いている」とおもわせてくれるようなところがあって、それが僕を村上作品に強く惹きつけるのである。
強い内向性を持ち、内面世界に目を向けられる人にとっては村上春樹が示す世界はある種の心地よさを感じるのではないかとおもう。しかも、それが実は外の世界のことも喩として語っているのだ。
また、到底実写化不可能な作品ばかりなのもよい(できるとすればアニメにしかならないだろう)。読者は想像力の世界でのみ村上の文章と対峙し、味わうことができる。青豆の歪んだしかめっ面や岡田亨が「井戸」をすり抜けるときの描写など、実際に映像化されてしまえばイメージが固定されてしまい、興醒めもいいところである。『フランケンシュタイン』の「怪物」のように、想像力の世界でしか存在できないものを村上はよく描写している。『風の歌を聴け』や『ノルウェイの森』、『ドライブ・マイ・カー』など、いくつか実写化されているものはあるけれど、ファンタジー的要素の薄いものが選ばれていて、特に『1Q84』はどうしたって実写化してしまえば陳腐なものになってしまうだろう。
まあとにかく、僕は内に潜っていくのが好きで、本があればいくらでも自分と対話していられる。そのための「井戸」的空間もとうとうこしらえてしまった。それはまた今度紹介するかもしれない。
自分の世界に深く潜っていくと思考がループしていったり、極端に偏らないか心配だという声も聞かれるだろうが、一応僕はそうならないように一つのルールを設けている。それは「自分が正しいだなんて思わないこと」である。直感に反するような考えであるが、これがあるだけでずっと世界を澄んだ瞳で眺めることができる。少なくとも「自分が絶対正しい」と思っている人間よりは。
ああそうだ、僕はこうした「自分が絶対正しい」と思い込んでいる人間が嫌いなのだった。そして、こうした人間は自分の見てきた世界の広さを説くことが多い(本当はそれでも狭いにかかわらず)。
まあこのように外の世界の広さを説くのはよいとして、内の世界の深さを軽視するものを、僕は嫌っている。「自分が絶対正しい」と思っている人間は、内の世界に深く入っていくということがない。なぜなら、そこには本人でも直視できない「正しくない自分」がいるからだ。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/07/09分(上)
ナスとししとうのキーマカレー
茹で鶏・きゅうり・ゆで卵のサラダ
2026/07/10分(下)
小松菜・油揚げ・落とし玉子の味噌汁
わさび椎茸の佃煮
ナス・ししとう・きゅうりは畑で採ってきたもの。
参考文献
・加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』













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