0050 一汁一菜がフィットする

百汁百菜

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 正直おかずを作るのがめんどくさいとおもっている。色々あってキッチンに立ち始めて15年ぐらいになるが、それだけ経てば、料理に向ける熱量というものはなくなるものである。スパイスとカレーにハマった頃には再び燃え上がったといってもいいだろうが、それも燃え尽きた。今では、昔取った杵柄をたまに振るうといった程度になっている。
 自分の夕食一人分だけを用意するとなれば、さらにおかずを作るなんてモチベーションは湧かない。家族のためなら多少は重い腰を上げようという気にもなるが、自分一人のためにそこまでやる気はない。昔にだいたいやりたいことはやってしまったから、今さら、という気にもなる。よほど興が乗らないとおかずの類は作らない。
 それでも毎日食べていかないといけない。作るのが面倒だからと、宅配冷凍食に任せたいとはおもわないし、外食ばかりしていては破産する。完全食に置き換えるのもなし。自分で作った飯を食っていない日が続くとなんとなく不快感が募ってくるというか、腸の調子が露骨に悪くなってくるので、できれば夕食だけでも自分で作った飯を食う生活サイクルは保ちたい。そこで一汁一菜である。
 おかずは長持ちする漬物や佃煮などを作るか買う。佃煮はほとんど買っているが、漬物は作ることも増えてきた。そして味噌汁である。おかずを兼ねるために具材を多めにするのはマスト。気分によっては油で具を炒めてから出汁に投入したり、味噌をちょっと増やしたりして食べ応えを出せば、おかずがなくてもまったく困らない。ボリュームのあるおかずが並ぶ日には、味噌汁の具を減らして調整する。味噌汁が要にして調整弁としてはたらくから、汁がなくておかずとご飯だけというのは、僕からすればありえない。

 この味噌汁という枠組みは一見窮屈におもえるかもしれないが、中身を覗けばまことに自由闊達、融通無碍であり、サブとして添えるのではなく、メインに躍り出ることで顕になる可能性に満ち満ちている。味噌汁は具材の味を残しながらも、みごとに調和させるのに長けている。お決まりのわかめや油揚げにとどまらず、様々な野菜やソーセージ、ベーコンも受け入れつつ、練り物だって入れてもいいし、卵を落とすなり、炒り卵を入れたっていい。あれこれ入れても、味噌がそれをまとめてくれる。それでいて、具材の長所を殺すことなく、でも味噌がつける味は染みている。そういった味わいは食べ飽きることがない。毎日だって平気なのである。
 その一方で、過剰な調味料で具材の味を染め上げ、もはや具材を調味料の味を乗せるための媒体としかみていないような料理がみられるが、このような味は食べ飽きやすい。具材を殺しているからだ。われわれは「複雑な味」を評価するが、調味料だけで形作られた複雑な味はすぐに食べ飽きる。めんつゆや焼肉のタレだけを舐め続けるなんてできないだろう。複雑なのに、画一的でのっぺりとした感触を抱いてしまうのは、具材の味がないからである。
 味噌はそこのところを、具材を殺さずに、複雑な味をつけられる。味噌はその製造プロセスからして、すでに複雑な味をもっている。だから、味付けに他の調味料を要しない。味噌だけで味をつけられる。ただ、旨味好きの日本人には、ちょっと物足りないと感じられることが多い。だから、そこに出汁の素として煮干しや鰹節を補ってやればそれでじゅうぶんなのだ(僕は顆粒出汁の素は使わないことにしている)。また、調理の手順は大変やさしい。水(もしくは出汁)を煮立てて具を煮込み、味噌を溶くだけである。具材が煮える順番と、今日の味噌の種類なり量の気分だけ考えていればいい。もうおかずを作るのはめんどうだけど、毎日自分で作ったものを食べていたい僕には、そんな味噌汁を中心に食事の型を立てる一汁一菜がジャストフィットしたのだ。

「今日は何も思いつかないから一汁一菜にしよう」とスポット的にやっていたものが、いつしか習慣になった。続けるのは至って容易である。おかずを作るエネルギーを絞り出すよりも、一汁一菜で食事を済ませるほうが使うエネルギーは小さい。腰が重くて上がらないなんてことは起こらないのだ。もともとあれこれ食べたい性分ではないし、美味佳肴を追求するような性分でもないから、「毎日違ったものを食べなきゃ」というような食への執念は簡単に捨てることができた。『自炊の壁』において、「毎日違ったものを食べなきゃ」という観念は、給食で毎日違ったものが出てくるのが当たり前で育ったのが原因ではないかとも考察されていた。これはなかなか納得できる理由ではないか。また、昔の料理番組や料理本では、「毎日違うものを出すのが愛情」かのように語られていたこともあっただろう(実際、家にある昔の料理本を繙くと、そのようなことが書いてあった)。ただ、こんなもの今では自炊の壁を高め、また「食事とはこうでなければならない」という観念に人を縛りつけるくびきにしかなっていない。それを軽やかに打ち破るのが一汁一菜である。

 一汁一菜は貧しさからくるものではなく、軽やかさの獲得なのである。そして、一度飛び込んでみれば、そのうちにいくらでも豊かさはある。といっても、その豊かさは自らで拓いていく豊かさである。「この具を味噌汁に入れるのはありえない」という思い込みを外していくことで味噌汁の世界は広がっていく。
 また、一汁一菜は食事を縛るための型ではなく、そこから組み立て始めるための型なのである。伝統芸能ではないのだから、守るも破るも離れるも自由にやればいい。ただ、そこに帰ってくることができる型として一汁一菜はある。帰る場所があれば、毎日食べるものに頭を悩ませることもなくなる。これはまったくぜいたくな悩みであって、選択の自由であって豊かさの象徴なのだから、できるだけ手放したくない部類の悩みであることはわかるが、はて、いつまでこの豊かさを享受し続けられるかというのは、今の世界情勢、国内情勢を見てもあやしいところがある。こうなったとき、一汁一菜は身を守る手段にもなるのだ。ご飯を炊いて、味噌汁をつくれば生きてゆく力が身に付く。これは土井善晴が『一汁一菜でよいという提案』などで強く主張していたところである。

 一汁一菜は実によく僕の身体に馴染んだ。これを続けていられる限りは生きていけるだろうというのは確信になりつつある。依拠できるものを見つけられたのである。僕は特段「推し」というのはいないが、これがなくても生きていられるのは、他に依拠できるものを見つけたからかもしれない。一汁一菜は生そのものを与えてくれる。フィットするもなにも、最初から一つだったのである。

10数年にわたって、我が家では『おかずのクッキング』を購読していた。土井さんの料理にずっと触れてきて、一汁一菜に向かう準備は学生の頃からなされていたのかもしれない。

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今回の一汁一菜

2026/02/25分

かんぴょう・ごまのおにぎり
白菜・しめじ・油揚げの味噌汁
野沢菜漬け刻み

参考文献

・佐々木典士・山口祐加『自炊の壁 料理の「めんどい」を乗り越える100の方法』ダイヤモンド社
・土井善晴『一汁一菜でよいという提案』グラフィック社(新潮文庫版もあり)

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