僕が子どもの頃、子ども向け雑誌を買ってもらうとなれば、付録が豪華なときと決まっていた。雑誌本体だって読むけれど、やっぱり欲しいのはなりきりおもちゃのペーパークラフト。僕の家ではいわゆる「DX玩具」は買ってもらえなかったから、その付録が僕にとっての変身ベルトや、戦隊ロボだったわけだ。かつては毎月出ていた子ども向け雑誌は季刊となり、ボリュームが増えて値段は高くなったものの、昔よりもさらに付録が豪華になっている様子で、やっぱり雑誌そのものよりも付録が本体だ。やっぱり子どもにとっては、読むよりも遊んでナンボである。
ほかにも、『少年ジャンプ』系のとある雑誌では、昔はたまにしか付いてこなかったカード付録が、今となっては毎月のように何か付いてくるようになっていて、もはやそれが本体になっている。僕もかつては複数冊買ったことがあるが、欲しいのはほんの一枚のカードなのに、それ以外が丸ごとついてくるというのはなかなか勿体ない気持ちにさせられた。
マクドナルドのハッピーセットのような、消え物である食事やお菓子が本体で、おもちゃやグッズがおまけに付くといった場合は、本体を食べてしまえばそれで済むので勿体ないおばけは出てきにくい。それでも、大人気コンテンツとのコラボの際には、おまけだけ抜いて本体を捨てるといった、かつてのビックリマンチョコやカード付きポテチのような問題が浮上する。最近の「ちいかわ」コラボでは対策がなされたようだが、その前のポケモンカードのときは本当にひどかったと聞く。
一応、これらの商品は本体である雑誌や食事の提供があって、カードやおもちゃ・グッズはそのおまけであるという建前で成り立っているはずだが、みんな雑誌や食事には目もくれず、「おまけが本体」であると認識している。雑誌なんかは、真っ先に付録を開封して、本体に関しては暇があったら読んでもいいかな、ぐらいの感覚だろう。そもそも売る側だって、「おまけが本体」だとおもっているから、お菓子の味はそこそこのものにしておいて、おまけのほうに力を入れている。
かつては僕もそんなおまけを目的に色々買ったものだが、最近はすっかり買わなくなった。主役に躍り出たおまけに面白さを感じなくなってしまったのかもしれない。それに、コラボ商品の値段は、おまけとそのキャラクター使用料なんかもコミコミとなって跳ね上がっているから、頼んでみよう、買ってみようという気にならない。
それよりも、なんとなく買ってみたらおまけがついててラッキーといった、予想外の方向からもたらされるおまけのほうがよっぽど嬉しい。別にそのつもりで頼んだわけではないけど、ファミレスで何か注文したらスープバーがついていた、ぐらいのことでも僕は嬉しい。サッポロ一番塩ラーメンの「切り胡麻」みたいに、あればちょっと風味がよくなるぐらいのもので丁度いい。おまけはそれぐらいささやかで、でもあったら嬉しいぐらいのものでかまわないのだ。
本体の貧弱さをおまけで補おうとし、本来おまけ程度なはずのものを前面に立たせて主役化するような行いは僕の好むところではない。たとえば、「やりがい」「他人に感謝される」といったものを押し出して人を使おうとする発言や求人広告などがそれにあたるが、僕はそういうのを見聞きすると虫唾が走る。
「やりがい」や「他人に感謝される」のは副次的なものであり、最初から期待すべきものなどではない。これらはたまたま付いてくるぐらいにおもっておかねばならない、いわば「おまけ」の部分なのであって、それがいかにも商品価値——この場合は、「ここで働く価値」とでもいえよう——かのようにかたるのは綺麗事だとか欺瞞だとかいう前に、そもそも興醒めなのである。
僕のかつての上司の上司は、僕が「正直営業の仕事に興味が持てません」と投げかけたとき「でもお客さんの喜ぶ姿とか、そういうやりがいがあるんだよ」と返した。その時僕はあまりの定型文ぶりに心底がっかりしたのと同時に、「それを言っちゃあおしまい」のラインを超えたな、とおもった。この上司の上司は営業時代の武勇伝が社内で度々話題になるような人だったから、もっと面白いことや変わった目線でものを見ているのかとおもっていたが、すっかり役割に飲み込まれて、その人自身から出た言葉ではなく、役割が言わせる台詞を再生するマシーンになってしまっていた。極め付けに「おまけが本体」であることをこの上司の上司は告白してしまったのである。
消費者側、ないしこの場合は被雇用者が「やりがいがあるから続けられます」といったふうに「おまけが本体」だと言うのは勝手である。でも、販売者側ないし、力のある立場の者が「おまけが本体」なんてことは決して口にしてはならない。「やりがいがあるんだから多少のことは我慢しろ」なんてことは、口が裂けても言ってはならない。これはまさに「それを言っちゃあおしまい」なのである。
あくまで「チョコウエハースが本体で、おまけがシールなんです」と言い続けないといけない。おまけが本体を凌駕するような価値を持ってしまっていても、それが売りのひとつではあっても、やっぱり「おまけはおまけ」のラインは守らねばならない。ウン万円もするロボットのプラモデルにガムが一個ついているだけでも、「あくまで食玩です」と言い続けないといけない。そこまでいけばある種の諧謔になっていて、むしろ面白くなってくるのだが。
この世の中において、そういう“テイ”とか、そういう“フルマイ”によって成り立っているものは多い。おまけの雑貨と雑誌のボリュームが逆転しているようなものでも、一応「本だから」という理由で本の流通に乗せられる。食玩も、ガムやラムネ、ウエハースがついているから一応「食品付きのおもちゃ」ということでスーパーの店頭に並べられる。このような故意の拡大解釈や、法の隙を突くような行いは、ときにグレーなものが蔓延る原因にもなっているが、それを変に突き崩すのは無粋であるとおもう。
あまりにも「おまけでっかち」になっているものはやはり面白くはないけど、別にただ面白くないだけで、目の敵にするほどのものではない。ただ、「おまけが本体」だと売る側が言わなければ、の話である。僕は別に期待してないところでおまけがついてくる方を面白がっているだけである。なので、ブルガリアヨーグルトのおまけの砂糖を返してください。僕が言いたいのはそれだけ。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/03/30分
キャベツ・ぶなしめじ・油揚げの味噌汁
ベーコン・玉ねぎ・キャベツ・卵の炒め物
大根の醤油漬け






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