0099 延長線を生きる、あるいは神殺しについて

百汁百菜

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 僕は3度死んだ。17のときと22のときと24のときの3度死んだ。世界のナベアツがアホになった。
 24のときに「経験」した3度目の死によって、ついにそれまで僕が積み重ねてきたものが根こそぎにされて、僕は一度更地になった。それまでの僕にピリオドが打たれたのである。今の僕はその延長線延長戦を生きている。
 人生とは線分かのように思われている。誕生という点と、死という点を結ぶことで生まれる線分のことだ。だが、それらの点を人は決して経験することができない。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、「死は人生の出来事ではない。人は死を経験しない」(古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』p.311 角川選書)といっている。また、弘法大師空海は『秘蔵宝鑰ひぞうほうやく』の序において、次のようにいっている。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりにくら

 これが意味するところは、「生きとし生けるものはすべて、その生と死の間にいて、生と死そのものを知ってはいない」(松岡正剛『空海の夢』p.245)であろうということである。要するに、生と死を人は経験することはできず、線分かのように思われている人生も、その始点と終点はどちらも「ぼやけている」。
 人が死を経験できるのは他者との関わりの中だけである。親の死、先生の死、ペットの死、友の死……。人は他者の死によって死という事象がこの世にあることを経験する。それでも、自分自身の肉体が生命活動を停止する瞬間、つまり死そのものは経験できない。
 だが、僕は死を「経験」した。先にも述べたように、人は自身の経験として、生死に明確に点を打って線分とすることはできない。だが、それまでの自分を殺すということによって、僕は人生の線にピリオドを打った。そして、今の僕はその延長線を生きている。
 ここでいう「自分を殺す」というのは肉体的な死を自分自身にもたらすということではない。それまでの自分自身を殺すということであり、それはつまり、それまでの自分自身が依拠してきた世界観を殺すということである。

 その自分自身が依拠してきた世界観というのは「神的なもの」といって差し支えないだろう。世界のあらゆるものに対する価値判断の基準となり、またそれによって自分自身の価値を担保するもの、存立基盤となるものが世界観である。たとえば、現代人は金や学歴、スキル、フォロワー数といった、形のないものを信じている=価値の基礎を置いているはずである。こうしたものを信じ、またそれに依存して自身の価値を規定しようとしているところには、宗教的な力がはたらいていると見なければならないだろう。神という言葉を使ったとしても問題ないようにおもえる。
 もし金の価値が、学歴やスキルの価値が崩れてしまえば人はどうなる?この世で価値があるとされているものを高め、集めるために努力してきたというのに、それらがすべてパーになってしまうとなれば、これまでの人生になんの意味があったのだろうと、危機的状況に陥ってしまう。
 また、人がこれまで知らなかった価値観に出会ったとき、ひどくショックを受けるのはなぜだろうか。自分が正しいとおもっていたことが正しくなかったかもしれないという可能性に曝されてしまえば、これまで自分が信じてきた価値観が揺らぎ、人は自分自身の存立危機に陥る。自分の価値を自分ではかれなくなってしまい、存在価値を見出せなくなる。これほどに人を価値づけ、規定し、根っこに食い込んでいるようなものはやはり「神的なもの」といってよいだろう。

 ここであらゆる宗教が自身の奥底に神が潜んでいることを暗示してきたことは見逃せないだろう。西田幾多郎は『善の研究』において、「凡ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ」(p.229〜230 岩波文庫)と言い切っているほどである。また、西田は「最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰はこの自己にある」(p.238)とまで言い、人の根本には神(=真理)があること、そしてその神(=真理)は自分の中にもいるということを表明している。
 ヒンドゥー教においては、アートマン(宇宙の最高真理)とブラフマン(個人の本体)の合一たる「梵我一如ぼんがいちにょ」が説かれてきたし、空海が「即身」というとき、その身体そのものが融通無碍ゆうずうむげで無数無尽な全宇宙のネットワークの世界観、要するに真理を表しているということである。また、浄土系の思想においては、自身が弥陀みだで、弥陀が自身であるという矛盾を矛盾のまま抱えて超個的な「一人」になることが説かれているし、禅においては、過去・現在・未来の区別のない絶対的な現在に住して、雑念を加えない無我の境地を目指しているが、浄土系と禅のこれらの考えは鈴木大拙の言うところの、「二つのものの間に媒介者を入れ」ずに「衆生が無上尊と直接に交渉する」(鈴木大拙『日本的霊性』p.40 角川ソフィア文庫版)ことであり、人々は自身の奥深くに潜っていくことで神・仏と直接に繋がる道が開かれうることを種々の宗教は示してきた。
 かのキリスト教にあっても、キェルケゴールが『死に至る病』で証したように、神は自己の尺度なのである。

……自己の度は自己の尺度となるものに比例して強まる。神が自己の尺度であるとき、自己の度は無限に強まるわけである。神の観念が増せば増すほど、いっそう自己になり、自己になればなるほど、神の観念が増す。自己が、この特定の単独な自己として、神の前に存在していることを意識するときにはじめて、そのときにはじめて、自己は無限の自己なのである。

セーレン・キェルケゴール(著) 鈴木祐丞(訳)『死に至る病』p.146

キェルケゴールは神が個々の人間に向けている「神の意志」を蔑ろにするなと『死に至る病』の中でいう。ではその「神の意志」はどのようにして認識されるか。それはやはり自分の胸に手を当ててみるほかないのである。そして神の前に跪くのである。やはり、神は自分の中にいる。

 ここで僕は自分の中にいる「神的なもの」を殺したのである。神殺しをおかしたのだ。これまで自分が依拠していた世界観を潰し、「神的なもの」が決めた尺度を否定する人生を選ぶことにしたのだ。しかし、あらゆる神話でもそうだったように、神なるものは一度殺したところで復活するものである。何度も殺して、まさに根こそぎにしてしまわなければならない。僕は僕に巣食う旧来の価値観を根こそぎにするためには3度死なねばならなかった。
 言い方がまずければ、僕は世界を見るためのメガネを叩きこわしたといってみてもよい。人は裸眼、つまり、ありのままで世界を見ることはできない。なんらかのメガネ=世界観のフィルターをかけて世界を眺めている。それは言語であり、文化であり、時代の空気といったようなものであるし、生まれ持った身体の制限というのもあるだろう。
 何故かみんな、最初に買ってもらったメガネのフレームを大事に大事にしようとする。転んだり暴力を受けたりして、フレームが歪んだり折れたりしてしまったとしても、直してなんとか使おうとする。度が合っていなくても、鼻当てが痛くても、耳の上が擦れても、それでも使い続けようとする。しかし、僕はそこで壊れたメガネを一旦徹底的に毀してしまって、新しいメガネをかけることにしたのだ。かくして僕は「神的なもの」、要するに自分自身を殺して都合3度も死んだのだ。

 こうして僕は死の先にある延長線たる人生を歩むことになったのであるが、ここでハイデガーが『存在と時間』において話題にした「先駆的覚悟」について触れないわけにはいかないだろう。「死への先駆」ともいわれるように、ハイデガーは「「死」という究極の自己放棄の可能性を受け入れることができれば、それ以外の自己放棄の可能性はどのようなものでも担うことができる」(轟孝夫『ハイデガーの哲学』p.157)という。ここで言及される「自己放棄」というのは、「存在」を優先するということであり、その「自己放棄」の究極の形態が「死」であるという。では、「存在」を優先するということはどういうことか。それは「良心の呼び声に従うこと」であるという。しかし、われわれはたびたび良心の呼び声に従うことができない。それは「自己保存の本能に反するからであり、すなわち「死」の恐れからなのである」(同)という。話が混線してきた。ハイデガーの議論のややこしさを記述しようとするとどうしてもこのようにならざるを得ない。そのため、大幅に端折ると次のようになる。

 人が「存在」によって規定された自己を徹底的に担い抜くという態度のことが「先駆的覚悟」である。

 ここでいう「存在」もまた「神的なもの」である。ハイデガー自身はキリスト教神学を自身の哲学の出発点としつつも、それでは自身が問いたい哲学に辿り着けないと、キリスト教と訣別したのであるが、結局「存在」とはなにかを明かせずにいた。ここでこのように「神的なもの」として「存在」の意味を回収してしまえば、世のハイデガー研究者だけでなく、墓場のハイデガーまでもが生き返って殴りかかってきそうなものであるが、説明を簡便にするためにこのような記述となってしまったことは申し訳なくおもう。
 さて、「存在」によって規定された自己を徹底的に担い抜くというのはどういうことか。それはつまり他力の思想にほかならない。なにかを上手くやってやろうだとか、良いことをやってやろうだとか、「個人」なるものを中心に据えようとするような、「人間のさかしら」を入れずに、自己の全てを、自己を規定する大きな存在に対してなげうつのが他力の思想である。
 人はつい「さかしら」を加えないといけないと勘違いしてしまう。「さかしら」を加えずに大きな存在が導くままに任せる、ということは先に引用したように「自己保存の本能に反する」のである。つまり、なにもしないでいるのは「死」ぬようなもののに感じられてしまって、人はじっとしていられないのである。しかし、親鸞はこのようにじっとしていられないことから出てくる善行を退けた。善行とは、念仏以外にもあらゆる修行をおこなって徳を積もうとすることであり、「さかしら」そのものなのである。親鸞はそれを退け、ただ阿弥陀如来の本願(=他力)によって唱えられる念仏だけが往生のために必要なものであるといったのである。

 鈴木大拙は『日本的霊性』において、「すべての宗教には、はからいのないところがある」(p.360、引用にあたり傍点削除)といい、「宗教の立場は受動性の認得である」(同)といった。「はからいのない」とは無目的的のことである。要するに、宗教とは「人間のさかしら」を加えることなく、神・仏の「はからいのなさ」を受け入れることにあるといえる。
 このような考えを、生まれてきたことには意味があって、人生には目的があって、叶えたい夢がある人間にとっては到底認めることはできないだろう。だが、そのことによって人は「さかしら」を加えなければ死んでしまうことを恐れ、決して経験しうるものではない生と死にかかずらうことになり、今をないがしろにするのだ。仏教の言葉でいえば、これこそ「苦」でなくてなんであろう。
 それから抜け出すためには、やはり死なねばならない。大拙はいう。「死ぬというは分別の境から出ることである」と。僕はその言葉に従ったわけではない(大拙を読んだのは30歳になってからだ)が、3度死んだことによってようやく「さかしら」の世界から抜け出すことができたのだ。目的も計画もない、個人さえも中心に置かない生き方は、死ぬことによって達成できる。
 人はつい、壊れたメガネを修理するように、既存の価値観を頑なに堅持したまま、間に合わせの変化でやりすごそうとするが、それでは失敗してしまうだろう。そんなもの、問題の先送りに過ぎないからだ。アップデートだの、リフレーミングだの、チマチマしたテクニックだけでどうにかしようとするから、いつまでも悩みは尽きないのだ。振り切ったとおもった迷いや願いは必ず形を変えて再会することになるだろう。
 これを振り切るには、神をしいして自分も死ぬような「経験」がなければならない。死はここではじめて「経験」されうるのだ。しかし、これは肉体の死を意味しない。自分の人生にピリオドを打ち、次の人生に歩むという「経験」は生きていなければできないからだ。死を「経験」したって、肉体は生きているのだから、戻ってこなければならない。『日本的霊性』に妙好人として紹介されている浅原才市はまさに一度死んで、戻ってきている。ここに、生きながらにして死に、死にながらにして生きるというありかたが実現される。生にも死にも恬淡てんたんとして、物事の価値に振り回されず、あれとこれをいちいち区別しない、そんなありかたである。

 生死の境を越え、悟った人間の目の前に熊を置いたらどうなるだろう、という至極くだらない問いがある。もし熊と出くわしてそこで死ぬ、となればそれは天命であるとして受け入れるかもしれない。また、肉体のほうがもちろん闘争・逃走反応を起こして必死に生きようとするから、それに従って生にしがみつくかもしれない。悟りの人はただ、そのときの状況に従うだろう。それは「はからいのなさ」であり、「さかしらのなさ」である。だが、「熊を置く」という問いはまさに「人間のさかしら」そのものであり、その分別の境から出てしまった悟りの人の前にはもはや問題になっていないといえるだろう。

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2026/04/30分

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参考文献

・鈴木大拙『完全版 日本的霊性』角川ソフィア文庫
・セーレン・キェルケゴール(著) 鈴木祐丞(訳)『死に至る病』講談社学術文庫
・轟孝夫『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書
・西田幾多郎『善の研究』岩波文庫
・古田徹也『シリーズ世界の思想 ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』角川選書
・松岡正剛『新版 空海の夢』春秋社

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