欲は放っておいても溜まっていき、それが満たされないでいると今度はフラストレーションが溜まっていく。欲は人が前に進むためのエンジンかのような見方がなされることも多いが、決してそれだけではない。勝負を避けたり、敵わないものから撤退するようなときであっても欲は発揮されるし、そもそもじっと動かずにいたって欲は生まれてくる。
なにせ、我々動物は葉緑素を持たず、自らエネルギーを生み出すことができない。じっとしているだけでもエネルギーは消費される一方だ。食べることによって、大元は植物が生み出したエネルギーを我が身に取り込み、命を繋ぐ必要がある(肉を食べるといっても、その動物は植物を食んで成長している)。生きるとはこうした欲に突き動かされることである。その欲に従い、食べて出して寝て、性交渉をする。
生きている以上自然に湧いてくるこれら肉の欲は断ちがたく、そして強い衝動として現れるため古来より人を悩ませてきた。
そこで現れたのが仏教における、修行の末の悟りによってこれら肉の欲を断つといった試みである。この世を包む〈苦〉より逃れ、解脱してしまうのがもっともよいという考えのもと、禁欲、節制、瞑想が行われる。
他の宗教や文化圏ではどうだろう。仏教(といってもすべてではないが)のようにそもそもの殺生を咎めるものもあれば、ある種の動物を聖なるもの/穢れたものとして扱い、食用にしないといった選択を行う文化圏もあるし、特定の曜日や祭日にのみ肉や魚を食することが許されたり、特定の期間、太陽の昇っているうちは断食を行うといったことも行われる。また、生殖を目的としない性行為を咎めたり(自慰まで咎める解釈もある)、女性には特定の衣類の着用を命じたりするなど、さまざまな制約を課して欲にヴェールをかけてきた。
だがこれは人間の動物性からの逃走ともいえる行為であって、人間を他の動物ときっぱり線を引いてしまうからこそ生まれてくる発想である。人間も一動物であるという考えのもとではこのような禁欲主義や、聖なるものと穢れたものの区別は生まれてこない。民俗学者の赤坂憲雄はこうした事態について次のように述べた。
……どれほど厳密に文化/野生を峻別しようとしても、人間が動物であるかぎり、〈内なる野生〉を根絶やしにすることはできない。食と性という異物をいかに処理するか、という厄介な問題から逃れることはできない。そうして食べることや交わることの周辺には、文化/野生があいまいに重なりあい、それゆえに避けがたくタブーや聖なるものが生成を遂げることになる。
赤坂憲雄『性食考』p.127
動物「でない」人間にとって、食と性にまつわることは異物であって、できれば排除したいと考えているが、それを排除してしまえば動物「である」人間は生を繋ぐことができない。その相剋に頭を悩ませた結果生まれたのが、種々の文化や宗教にみられるタブーや聖なるものの感覚というのである。
タブーというものは、我々が言葉で分節してきた世界のいずれにも属することができなかった「はぐれもの」であったり、世界に属していたものから剥がれ落ちた「おとしもの」であったりする。頭に生えているときは何の汚さも感じなかった髪の毛が、それ一本だけ床に落ちているとなれば、途端に汚らしいものに見えてしまう。かつては自分の一部であったのにも関わらず、そこから剥がれ落ちたことによって、世界のどこにも属さないものとなり、「汚いもの」になってしまったのである。このことを森山直太朗は『うんこ』という曲で極めてクリティカルに歌い上げている。
聖なるものにあっても、結局我々の世界から一段上のところに置かれてしまい、触れることのできないものとして扱われている以上、「はぐれもの」であることに変わりはない。
こうして我々は「はぐれもの」や「おとしもの」をタブーや聖なるものとして取り扱い、触れないようにしてきた。しかし、これら全てに合理的な理由があるかといえば、おそらくそうではない。我々がそこに穢らわしさや聖性を見出すのはたいてい、文化のヴェールによってのことだ。そして、そのヴェールは動物「でない」人間であろうとする不断の努力によって維持されている。
だが現代においては、動物「でない」人間を規定し、維持しようとしてきた文化のヴェールが、動物「である」人間の部分と結託し、その欲をいっそう掻き立てるといった事態に発展している。
日本においては食のタブーが少なく、こうした文化のヴェールは薄いように思われてきたが、ここ最近は「罪悪感」や「背徳感」が訴求ワードとして取り上げられ、強い味付けが施された高カロリー、高脂質の食べ物であったり、一度で大量に食べるのは好ましくないとされているものを「溺れるほど」にトッピングして食べるといった消費形態が生まれている。
ここで「背徳」といいながらも、本当に道徳に背くものとしては捉えられていない。どこまでも対象は自分自身であり、「今これを食べたら、これだけのカロリーを摂ってしまったら、明日の自分がまずいことになる(それでも食べたい)」ということだけを考えている。必要な分のカロリーを超えた、過剰ともいえるこの消費形態のためにその身を捧げたものたちがいるにもかかわらず、そこへの眼差しは注がれていない。もはや徳に背くことすらも消費の対象になってしまった。
アイドルやキャラクターに向けられる「推し活」消費はどうだろうか。どれだけかわいい(かっこいい)皮を被っていても、取り澄ましていたとしても、これは性欲と食欲の変奏である。文化のヴェールをかけて「聖なるもの」のようにして扱い、「尊い」などと言ってみせているが、その根源は性欲と食欲である。別に推し活がシモに直結しているとは言わない。プラトニックにその美しさを追い求める推し方だってあるだろう。だが、推しを通して満たされたいと思うとき、推しのグッズで身の回りを囲みたいと思うとき、あなたは推しの一部を我が身に取り込もうとしている。一体化するということは、交わることであり、食べることである。
文化のヴェールは、そうした人間のなまなましい欲からいったん目を逸らしてくれる。そして、いかにも公正で、健康的で、後ろめたさのない合法的な消費であるかを強調する。だが、この「正しさ」をもって、文化のヴェールは動物「である」人間と結託し、より強い訴求力をもったコンテンツを生み出し、いっそう人々を消費行動に駆り立てるようになってしまった。
そして、僕はこうした厚い文化の皮を被ったものによって消費行動に駆り立てられるのはごめん被りたいとおもっている。すっかり前置きが長くなったが、ようやくここで「溜めない生活」の話ができる。
僕が溜めないのは欲とフラストレーションである。最初にじっとしているだけでも欲は溜まると書いた。ならばそれを溜めないでいるとはどういうことか。簡単なことである。小出しに発散させてしまうのである。大きく溜まる前に、小さい段階で処理することの繰り返しである。
溜まったものは出されなければならない。出さずにずっと溜め込んでいれば、その末に抱えきれなくなり、空気を入れすぎた風船のように爆ぜてしまうようなことがある。僕はそうならないように、都度都度小さい孔を開けて、ぴゅっと出すことでそれを鎮めている。
僕は種々の欲を否定するようなことはしない。ただ、その欲が溜まって、「もっと」が欲しくなると際限ないことを知っている(そりゃ誰でも知っているか)。だがその「もっと」の前にその欲をサッと満たしてしまうことで芽を摘み取るといったことは誰にでもできることではないとおもっている。
たとえば、美味しそうなグルメをSNSやテレビで発見したとして、僕は一瞬それを食べたいと思うことはあっても実行には移さない。そういうときこそいつも通りの食事(一汁一菜)を摂るのである。腹が減っているからグルメ情報に踊らされるのであって、腹を満たしてしまえばそういったものには大して反応しなくなる。今食べた一汁一菜の食事以上に求めるといったことがなくなるのである。
そうして小出しに欲を発散していけば、フラストレーションが溜まるといったこともない。フラストレーションが溜まるのは、満たされたいのに満たされないという葛藤状況によってである。僕の場合、満たされてしまっているからフラストレーションが溜まりようはないし、そもそも必要以上に満たされたいともおもっていない。
だが、この必要以上に満たされなくても構わないという考えは、いったん欲に振り回され、深く追い求めるといった経験なしには得ることができないとおもう。
欲望は悪いもので、いつわるものである。だが、しかし、欲望がなければ、人は絶対の真理も、真に限りないものをも求めることはしないだろう。一度は欲望を通ってこなければならないのだ。
シモーヌ・ヴェイユ(著) 田辺保(訳)『重力と恩寵』p.238
「一度は欲望を通」り、深く追い求めては満たされるか、あるいは満たされなかったという経験なしには、深い欲望に訣別することはできない。人は持っていないものを捨てられないのだ。
だから、食べ放題に行ってはち切れんばかりに食べて満足する、あるいは後悔するといった経験が必要だし、性欲の赴くままパートナーになりうる人を求める(むろん、合法的かつ相手に迷惑をかけない範囲内で)経験において結ばれる、あるいはこっぴどく振られるといった経験も必要なのである。その上で、自分が欲しいと思うものの範囲を定めていく。僕の場合、それは周りの人よりも一回り小さく済んでいるのかもしれない。
無為自然。老子は「学を絶てば憂いなし」という言葉を残したほど、知識や欲をはたらかせず、またそれに縛られないで、自然に生きるのが好ましいという考えを残した。
自然法爾。親鸞は晩年、人間のはからいやさかしらを加えることなく、その身のままで大いなる弥陀の願いによって救いとられるのにまかせてしまうという境地を示した。
どちらも「なにもしないをする」境地である。ふつうの人間にとってこれは難しい。人は生きているだけで何かしらの工夫を加えたり、発展させようとしてしまうからである。特に現代は効率や合理性にこだわり、最短ルートがすでに示されている中で、これを退けて自然に任せるといった考えは受け入れがたい。「もっといいものがある」に溢れているのだ。
だが、僕はここでその「もっといいものがある」のを退ける。なにもしないをする。といってもこの生を繋ぐためには、本当になにもしないわけにはいかない。だから、この肉体が求める以上の欲を持たないようにすること。これが僕の理想である。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/06/23分(上)
厚揚げ・ししとう・ミニトマトの味噌汁
山形のだし風漬物(なす・きゅうり・しょうが)
たらこ昆布の佃煮
2026/06/24分(下)
キャベツ・ぶなしめじ・油揚げ・落とし玉子の味噌汁
山形のだし風漬物
たらこ昆布の佃煮
夏野菜の収穫が始まった頃なので、それを使ったメニュー多め。
山形のだし風漬物のレシピは下のリンクから。
参考文献
・赤坂憲雄『性食考』岩波書店
・シモーヌ・ヴェイユ(著) 田辺保(訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫










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