無駄な時間を減らして、もっと時間を有効活用できればいいのに……と昔の僕はおもっていた。どこに行くにも一時間以上はかかる場所に住んでいるから、大学通学や通勤時間を満員電車の中で無為に過ごすのが苦痛でしょうがなかった。このなんでもない時間を削れば、もっと他のことに使えたのに……!
だがそれでは灰色の男たちの思うツボである。「時間貯蓄銀行」を名乗る彼らは人々の時間を付け狙って暗躍する。素早くそろばんを弾いては人々に突きつけ、「あなたはこれだけの時間を無駄にしている!」と警告することによって無駄な時間を「預かった」挙句、人々を妥協も余裕もなくただ効率を求めて働き続けるマシーンへと変えてしまう。
ドイツの児童文学作家、ミヒャエル・エンデが手がけた『モモ』に登場する灰色の男たちは、まさに資本主義とそれがもたらす人々の思考体系そのものである。彼らは決して表立った活動はしない。派手にことを起こすよりも、じわじわと人々の心に侵入していく方法をとる。そうして、時間をもっとうまく使えないかと考えた人の心につけ込むようにして灰色の男たちは現れるのである。
灰色の男たちは人々に質問をする。食事の時間はどのくらい取っている?親の世話にはどれくらい?想い人との付き合いにはどれだけ時間を割いた?仕事一件につきどれだけ時間を使っているんだ?まさかおしゃべりでもしながらチンタラ仕事をしていないだろうな?……などなど。
そして灰色の男たちはこれらを素早く勘定すると、人々に人生の無駄にしている時間を突きつけて、それを「時間貯蓄銀行に預ければ将来もっと使える時間が増える」などと嘯くのだ。
かつての僕もすっかりこの灰色の男たちの言いなりになって、無駄を削ってもっと有意義な時間を!と渇望していた。そうすることできっと僕は成功できるのだと信じて。灰色の男たちがすっかり支配してしまった都市部では次のような広告の文句が並んでいる。
時間節約こそ幸福への道!
時間節約をしてこそ未来がある!
きみの生活をゆたかにするために——
時間を節約しよう!いずれもミヒャエル・エンデ(著) 大島かおり(訳)『モモ』p.92〜93より
灰色の男たちの、時間を節約すれば幸せになるという言説は不思議と説得力をもつ。人間誰しも時間は有限だ。動物にしては寿命は長いほうとはいえ、うかうかしていたら1年なんてあっという間に過ぎていってしまう。無駄な時間を過ごしている暇なんてない。無駄を削って自身の成功のために全て注ぎ込もうとするのは間違っていないようにおもえる。
しかし、それで本当になんでもうまくいくのだろうか?努力したぶん、自分にすっかり返ってくるだなんていったい誰が保証してくれるんだ?
こうした心配事に対して灰色の男たちは、今の(無駄な)時間を削って時間貯蓄銀行に預ければ、未来が保証されるどころか、利子をつけてお返しするなどという。人々はそれをすっかり魅力的に感じて、まんまと時間を預け入れてしまうのだった。
だがそんな約束、どう信じればいいのだろうか?未来は誰にもわからなければ、成功のためと信じて注ぎ込んだ労力が報われるかどうかもわからないからだ。
とは言っても、誰だって無駄とおもえる時間を削ってまで自分が注ぎ込んだ努力がおじゃんになるだなんて考えない。自分の努力はきっと報われるはずだと信じている。そうした人々の成功したい、ひとかどの人物になりたいという欲につけ込み、未来に対して盲目にしてしまうのが灰色の男たちのやり口である。
「人生でだいじなことはひとつしかない。」と男(注:灰色の男)は続けました。「それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手にいれることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金持ちになった人間には、そのほかのもの——友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでに集まってくるものだ。きみはさっき、友だちが好きだと言ったね。ひとつそのことを、冷静に考えてみようじゃないか。」
前掲書、p.126
灰色の男たちは「人生でだいじなことはひとつしかない」と、人々の幸せを規定して、そのための最短ルートを取るように勧めてくる。そしてそのためには若いときに時間を時間貯蓄銀行に預けてしまって、未来に返ってくる利子に期待せよというのだ。しかし、そんな「未来に利子をつけて返す」なんていうのは、まったくのデタラメであった。じつは、灰色の男たちは人々の時間を「預かった」ふりをして、自らの存続のために消費していたのだ。
灰色の男たちが絶えず吸っている葉巻がまさにそれである。灰色の男たちの吸う葉巻は、人々から巻き上げた時間の中に咲いている「時間の花」——われわれが過ごす時間の中で出会い、触れることができるほんとうに大事なものの結晶のようなものだろう——の花びらを巻いて作ったものである。灰色の男たちは、それを文字通り燃やしてはその煙を吸い込むことで生き永らえている。
未来に利子をつけて返すという約束を反故にしたうえに、人々が過ごす時間の中から本当に大事なもの、きらめいているものを奪って、しかもそれを燃やしてしまっているとあれば、人々の中から灰色の男たちに対して異議申し立てが起こってくるはずである。しかしなぜそれが起こらないのか?
それは、人々が無駄を省いてひたすらに「成功のため」に邁進するマシーンと化した暁には、灰色の男たちの存在と交わした約束をすっかり忘れてしまうからである。灰色の男たちは、はじめから踏み倒すつもりで履行できるはずもない約束をしていたのである。そして人々の側も約束自体を忘れてしまっているから、もはや人々は何のために無駄を削り、効率を求めて働いているのかわからなくなってしまっているのだ。
主人公の少女、モモは最終的に灰色の男たちが抱えていた「時間の花」の蓄えを解放してしまって人々に返し、葉巻を作れなくしたことで灰色の男たちの息の根を止めることに成功した。だが、現代においてその葉巻は姿を変えて現れ、灰色の男たちも復活してしまった。スマホの登場である。
スマホは人々から「時間の花」を巻き上げるのにすこぶる有効な機器である。灰色の男たちがいちいち出向かなくても、人々のほうから勝手にスマホを触っては時間を預け入れてくれるのだから。
最初は高い処理能力を持った携帯端末として、どこでもあらゆる情報にアクセスできるようになった便利なものという扱いであったが、いつしかスマホは人と人を結ぶコミュニケーションツールとなり、世界中の人々の暮らしぶりが流れ込み、自身も世界に向けて情報を発信するようになり、ついには世界を四角い画面を通して見るようになった。自撮りなどはまさにその典型であろう。人々はその眼に映った世界ではなく、画面に写った世界を見ているのだ。
もはや現実感は画面の向こう側に感じるようになっており、自分という像は画面の中でこしらえられてゆく。そうしてスマホが人々のアイデンティティの一部として組み込まれてしまえば、ますますスマホの虜となって片時も手放せなくなる。今にも灰色の男たちの高笑いが聞こえてきそうだ。
しかもスマホは葉巻のように燃やして無くなってしまうということがない!灰色の男たちは葉巻切れに怯える必要がなくなったことによって、かつてのように半分脅しのような手口を使わなくても人々から時間を巻き上げることができるようになった。
灰色の男たちは「あなたのためですよ」「あなたに合ったものを提供しますよ」「あなたの生活はもっとよくなるに違いありませんよ」といったメッセージを送るようになり、「時間節約こそ幸福への道!」と叫んでいた頃に比べて、ずいぶん柔和なものへと変貌した。そして「あなたらしさ」の追求へと人々を静かに駆り立てるようになった。
「あなたらしさの実現にはこうした商品がおすすめです!」灰色の男たちは人々の声に自分たちのメッセージを紛れこませてその影響力を再び増している。葉巻を燃やさなくてもスマホがあれば彼らは生き延びられるから、モモのしたように「時間の花」の在庫を人々のところに解放して、灰色の男たちを一網打尽にするといった方法はもう通用しない。いまや人々の枕元、ポケットの中、机の上に灰色の男たちは棲んでいる。静かに、そして止め処なく拡大してゆく灰色の男たちの脅威に対して、われわれはもはや無力なのだろうか。
否、必ずこうした力に対しては反作用が生まれてくる。灰色の男たちに対峙したモモのように、スマホを得た灰色の男たちに対峙する何かが生まれてくるはずだ。
村上春樹は『1Q84』において、人々の無意識下ではたらく何らかの力を、人々が見えないところでこっそり活動している妖精や小人のような存在に仮託するような形で「リトル・ピープル」と呼んだ。それはたびたび物語のような形態を取って我々の心に浸透する。
そして村上は『1Q84』の物語の中でそうしたリトル・ピープルが世界に及ぼす作用と、それに対抗する形で持ち上がる反作用を描いた。灰色の男たちもまさにこうしたリトル・ピープルの一形態であるといえよう。そして彼らがバラまいた物語に対しては、必ず対抗する物語が生まれてくるはずだ。『モモ』においてはそれが主人公のモモの存在であった。では、今の我々の世界では?
キャンプやサウナ、読書や芸術などといった、スマホから離れて行うアクティビティによって灰色の男たちの影響から逃れようとする試みがなされてきたが、結局それらも広まってゆくにつれて「あなたらしさ」実現のためのツールとみなされ、消費生活に呑み込まれてゆく。今度の灰色の男たちは本当に粘り強く、また大きな口を持っている。
灰色の男たちが一度は飲み込んでみるけど、ペッと吐き出したくなるような、そんな方法でしか対抗することはできないのではないだろうか。それにはまず、世間に馴染まない、まるで外から持ち込まれたような逸脱者の存在が必要だ。
『モモ』において、主人公のモモは徹底して逸脱者であることが語られている。物語のはじめまでは決まった家をもたず、家族もおらず、髪はボサボサ、服は拾ったものなのかサイズが合っていない。そして灰色の男たちの言うことには惑わされない(だが、灰色の男たちを恐ろしいとは感じる)。
しかしその一方で、モモは人の話をじっくりと聴く力を持っているし、モモと触れ合う人々は新しいことをよくひらめいたり、楽しい遊びを思いついたり、その人の持ち味がモモの影響で存分に発揮されたりと、モモは周囲に好ましい影響を与えている。灰色の男たちはそれを邪魔に思って、モモと周りの友だちに攻撃を加えようとするのであった。
モモの出自はまったく不明である。もしかしたら、世界の均衡を保つために何らかの力が遣わした、灰色の男たちに対する反作用的な存在なのかもしれない。それは逸脱者の形をとって世界に現れ、周囲に影響を与えては灰色の男たちの勢力拡大を食い止める。『1Q84』においては、1984年から1Q84年(あるいは猫の町)に招かれた主人公たちがそうであったように。
周囲が信じる物語を自分が信じられないからと、思い詰める必要はないだろう。もしかしたら、自分は誰かによってこの世界に遣わされた逸脱者なのかもしれないとおもってみるのも一興である。とはいえ、ヒーロー気分はほどほどに。自分はモモのように他人の話をじっくりと聞いて、いいところを引き出せるだろうかと考えてみたとき、僕はきっと彼女のようにはなれないだろうと思い至った。
余談
『モモ』の中で、モモが拾った人形(状況的には灰色の男が置いたもの)の「ビビガール」についての描写は、全体的にファンタジー風味の物語の中でもやけに現実味のある一幕となっている。作者のエンデは、子どもがこうした人形をせがんでくるのに手を焼いていたのかもしれないと想像してみるのも面白い。
「ビビガール」はリカちゃん人形のような着せ替え人形で、音声機能つき。「あたしはビビガール、完全無欠のお人形です。」「あたしはあなたのものよ。あたしを持っていると、みんながあなたをうらやましがるわ。」「あたし、もっといろいろなものがほしいわ。」という3種類の音声をループで発する。
灰色の男(BLW/553/c氏。これが個体識別番号だ)曰く、「おもしろく遊ぶには、この人形になにかあげなくちゃだめ」で、「つぎからつぎといろんなものを買ってくれば、たいくつなんてしないですむ」という。ビビガールの求めに応じて、本物の革や生地を使った服や小物類を買い集めれば、飽きることなく遊んでいられる。もしビビガールの着せ替えに飽きてしまえば、今度はビビボーイもいて……と、どんどん新商品が湧いてくる。これを見て、僕は仮面ライダーなどのおもちゃを想像せずにはいられなかった。
いまや仮面ライダーのベルトはシャッターが開いて真ん中の風車が回るだけの代物ではない。作品ごとに登場する多彩な小物(USBメモリ、メダル、指輪、錠前、ミニカー、時計……そして今年はタマゴ)を「ドライブ」させるものとして、いみじくも「〇〇ドライバー」と名付けられた変身ベルトを中心に、テレビ番組の放送と連動したマーチャンダイジングを展開している。
ビビガールが求める服のごとく小物を集めて「ドライバー」に装着することで遊びの幅が広がり、飽きてきたころには新商品が投入されて、新しいフォームへの変身遊びができる。またこの小物類は量販店に並ぶだけでなく、アパレルやゲームの付属品としても展開することによって、さらなる消費へと人々を誘う。前回でも最後のほうに少し触れたが、こうした怒涛の商品展開は、物語の面白さを覆わしめるほどの闇を抱えていたりもする。
モモはビビガールと会話しようとするが、3種類の言葉をループするのでなかなかうまくいかない。仮面ライダーのおもちゃもそうだが、音が鳴り、光ることで確かに変身なりきり遊びはできる。だが、それしかできない。その他の何かに見立てたり、静かであるがゆえに収録音声外の声を遊び手によって引き出すということもできない。こうした「〇〇しかできない」ような、柔軟性を欠いた遊びに対し、エンデはビビガールとモモのやり取りを通して疑問を投げかけていたといえよう(まあ、子どもはなりきり玩具を与えられたとしても、何かに見立てて遊んだりはするだろうが。むしろ大人のほうが想像力を奪われているかもしれない)。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜


2026/07/07分(上)
ナス・トマト・油揚げの味噌汁
たらこ昆布の佃煮
2026/07/08分(下)
ほうれん草・ひらたけ・油揚げの味噌汁
わさび椎茸の佃煮
参考文献
・村上春樹『1Q84』シリーズ 新潮社
・ミヒャエル・エンデ(著) 大島かおり(訳)『モモ』岩波書店












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