0129 「庭」と「井戸」、物語は心を救えるか——映画『名探偵プリキュア!』

百汁百菜

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※ネタバレ注意!
映画『名探偵プリキュア! 不思議な庭と2人の秘密』のネタバレを含みます。

 紙一重であった。
 日常生活に支障はないが、スクリーンで映画を観るにはメガネが欠かせないにも関わらず、車の中にそのメガネを置いてきてしまった。気づいたのは映画館の席についてから。上映開始まであと10分。駐車場はそれなりに遠いところにある。
 結局走って取りに行くことにした。齢30のプリキュアおじさん(2年目)は朝イチでまだ人気ひとけの少ない施設を激走してメガネを取りに行く。これからの80分をボケた輪郭で見つめたくないという思いでひた走る。
 結局劇場に戻ったのは上映開始から2分ほど過ぎたころ。まだ上映前の映画予告や観覧マナーの注意の段階だったから助かった……。

 いや、僕の話はどうでもいい。

 映画『名探偵プリキュア!』において、傷ついた少女の心に名探偵プリキュアたちは無事光を届けることができた。だがそれは紙一重だったといえよう。
 僕には上映中、ずっと頭を擡もたげて離れない考えがあった。

もし少女がプリキュアたちの来訪を拒否していたら?
もし少女が共に歩み出せる友を持たなかったら?
もし少女が自己の変革を求める心を完全に失ってしまっていたら?
救いの対象となる少女は恵まれた存在で、画面に映し出されたのは「成功例」ではないのか?と。

 メインターゲットを考えれば、当然プリキュアたちは少女の心を救うことに成功する。挫くじけそうになっても仲間の支えを受けて立ち上がり、困難を乗り越える。そしてそれを観客たちは期待している。
 最後はハッピーエンドがいいに決まっているし、それはプリキュア映画という性質上、約束されているようなものだ。そんな中、ハッピーエンドに見えて若干の苦みの可能性を残して終わる(僕が勝手に想像しているだけだが)この映画に、制約の中でここまでやるのかと僕は大きな拍手を送りたい。
 むろんメインターゲットは低年齢の児童であろうが、この映画のメッセージは明らかにそれ以上の年齢層に向けても発せられていた。ティーン以上の年齢層なら、どこかに必ず響くところがあるはずだ。子にせがまれて観に来た親御さんたちの心にもきっと残る映画であったとおもう。
 今回はそんな映画『名探偵プリキュア!』を通して、キャラクターと物語の効用、そして光と闇の相剋について考えてみたい。

映画公式サイトはこちら

https://2026.precure-movie.com

あらすじ

 街では信号機や公衆電話など、色々なものが突然動かなくなる事件が連続して発生している。事件を追っていた名探偵プリキュアたちがその痕跡を調べると、街にはバツ印がいっぱい。
「ダメダメ」と口にしながら、あらゆるものにバツ印をつけて回っている黒い物体(個々は猫の顔の形をした黒いぬいぐるみのような風体だ)を発見したプリキュアたちは、それらを一度は撃退するも、どうやら事件はまだ解決していない。
 あるとき、プリキュアたちが所属する「キュアット探偵事務所」に「レイン」と名乗る妖精が依頼を持ち込む。その依頼とは、彼にとっての大切な友達「かりん」を「ダメダメ」の脅威から救ってほしいというもの。
 彼女は「庭」にいるという。その庭は現実世界から切り離された空間にある、まさにかりんのためだけに作られた、夢のような空間だった。その庭を作ったのは、レインによく似た姿のもう一人の妖精「アラン」。彼の願いはかりんを外の世界の脅威から守ること。アランは外の世界でひどく傷ついたかりんを保護するための庭を作り、自然と戯れながら静かに暮らそうとしていたのだ。しかし、その庭には「ダメダメ」が現れて悪さをしており、現実世界にも少しずつその影響が出始めていた。レインはその脅威に対処するため、名探偵プリキュアに依頼を持ち込んだのだった……。

かりん・アラン・レインのキャラクター造形

 まずは今回のゲストキャラクター、かりん、アラン、レインについて。彼らは映画『名探偵プリキュア!』を観に来た観客そのものである。というのが僕の見立てだ。

 キャラクターとしては3人に分割されているが、一人の人間に備わったあらゆる面をそれぞれのキャラクターに割り振っているのであって、かりん、アラン、レインは三位一体で一人の人間を表しているとみてよいだろう。よくある、私の中の天使と悪魔的な表現を推し進めたものだ。
 そして、かりんはメインの人格、アランは内向性を担い、レインは外向性を担っている。アランは文字通りかりんの心を守るための壁を作る存在で、レインはその反対に、かりんの心の扉を開く役割を与えられていた。この点については後に論じる。

 さて、かりんは幼い頃から妖精のアランと親しく付き合っており、その関係はかりんが14歳になった今も続いている。要するにかりんは妖精とのかかわりをもっている人、物語的な世界フェアリーテイルを生きている人なのである。
 大人になるにつれ、周りが妖精のような存在をだんだんと信じられなくなっていく中、かりんはまさにその妖精と共に暮らしている。物語的な世界を強く保持したまま大きくなっていっているのだ。そして、アランはただの石を宝石に変えてしまう力を持っているのだが、それは輝かしい思い出として二人の間に蓄積されていく。
 しかし、その一方でかりんは劇中「周囲と馴染めない」ことに対して苦悶の声を洩らす。それはかりんの生きる物語的な世界と、周囲の人々が生きる世界との間に摩擦が生まれているからであろう。
 人生において、永遠に妖精と親しく交わっているわけにはいかない局面というものがある。かりんも中学生になり、否応なく競争社会に巻き込まれていってしまう。テストの点数は49点と振るわず(もっと低い点数ならむしろ吹っ切れてしまえただろうに、そういう訳にもいかない絶妙な点数だ)、体育の50m走とみられる場面では途中で転んでしまう。
 妖精のアランとの輝かしく美しい生活の裏側で、競争社会に巻き込まれて心をすり減らしていくかりん。物語的な世界を心の中で豊かに保持しているからこそ、いっそう現実の世界では傷が増えていく……。

 そして映画『名探偵プリキュア!』の観客たちは、まさにかりんのような物語的な世界を心の中にもっている人であろう。子どもだろうが、大人だろうが関係ない。子どもにせがまれて観に来ただけの親だって例外ではない。彼らだって、かつてはかりんのように物語を信じていた少年少女だったころがあるはずなのだから。
 そして、物語的な世界と現実の世界とのギャップに疲れ果て、また周囲との比較で自己嫌悪を強めたかりんは心を鎖とざして深く引きこもっていく。そこに手を差し伸べにやってきたのが、名探偵プリキュアをはじめとするキャラクターたちなのであった。名探偵プリキュアは、かりんを通してわれわれ観客を救いに来たのだ。

傷つかずにいられる場所

 ついに疲れ果ててしまったかりんを見かねたアランは、自身が作り出した宝石をあしらってかりんと共に作った思い出のアクセサリーを媒体に、かりんが傷つかないでいられる理想の世界=「庭」を作り出す。中世風のお城と豊かな自然。お菓子を作る設備も整っているようだ。そこにはめったに出会えないという妖精たちも住み着き、かりんはそうした妖精たちと戯れながら過ごしていた。
 かりんはアランの手引きによって、自分の世界に閉じこもってしまった。外の世界なんか見なくてもいい、絵に描いたような物語的世界。しかし、アランの心の片隅には、本当にかりんを閉じ込めてしまっていいのかという思いがあった。それが、アランの分身たるレインを生み出すことにつながった。
 レインはアランと反対の性質を持つ、と言えば影の存在にあたるが、レインそのものは外の光を求めている存在であり、光と影は表裏一体という今作のテーマを体現したようなキャラクターである。このテーマに関しては「宝石とダメダメ」および「外の世界は光か?」の項で述べる。

 そして、かりん(およびアラン)の外向性の象徴であるレインは、外の世界に暮らしている名探偵プリキュアをかりんの「庭」に連れ込む。最初は警戒するかりんだが、レインの存在に象徴されるように、完全に外の世界から切り離されたいと願っていたわけではなかったかりんは、庭の中で名探偵プリキュアたちと交流を深めていく。

 われわれ画面の前にいる観客たちも、リアルの人間関係の中で疲れ果て、物語の世界に心を寄せたり、心の奥の深い場所、「井戸=イド」といえるような場所に閉じこもってひたすらに内的世界の涵養と自己省察に努めるといった経験はあるのではないか。いやむしろ、人にはそういう経験がなければならない。
 アランが作り出したかりんの「庭」はまさにそうやって周囲を遠ざけ、心の中に閉じこもるための場所であった。だが、まったく外の世界と切り離されてしまっているわけではない。自分の世界に閉じこもるためには、いくつか持ち込まないといけないものがある。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』で、主人公の僕(岡田亨とおる)が井戸に潜る際にバットを持ち込むという場面があったように、われわれもいくつかの「材料」を持ち込んだ上で、内的世界と対峙しなくてはならない。そして、レインはかりんのもとに『名探偵プリキュア!』のキャラクターを持ち込んだのだ。 

招かれたキャラクターたち

 心を鎖した少女の内的世界の危機を、その世界に入り込んだキャラクターの奮闘によって解決する……という物語の構図は昔からあるのだろうが、管見の限りでは『SSSS.GRIDMAN』が近年の作品の中でもそれに該当するのではないだろうか。今回の映画『名探偵プリキュア!』もそうした作品の一つに数えられることになるだろう。

 こうした内的世界への突入に際して、生身の人間はおそろしく無力である。どうしたって生身の肉体が邪魔になるし、人の内的世界にとって生身を持つ他人が入ってくるということは、まさに抜き身の刃物のような脅威となる。生身の人間はあまりにも直接的すぎるのだ。回り道なんてかったるいことをわざわざしないだろうし、比喩を用いてワンクッション置き、構造の類似性から伝えたいことを悟らせるといった方法を取ることもなかなかない。直接抜き身の刃物を握らせるのは禅のやり方であって、ふつうの人に向けてはいけない。直接抜き身の刃物を握らせるのは禅のやり方であって、ふつうの人に向けるのは危険すぎる。

 生身の人間の言葉は、物語のようには受け入れられない。リアルなものとして受け止められてしまうからだ。しかし、キャラクターという皮を被り、ファンタジーを纏った物語なら入っていけるような領域が人の心にはあるのではないか。直接的でないからこそ、かえってリアリティをもって受け止められるということはないだろうか。心理学者で、物語研究にも強い関心を持っていた河合隼雄はこうした物語の癒しの作用について多くの著書を残している。興味があれば参照されたい。

 かりんはレインの導きによって『名探偵プリキュア!』のキャラクターを内的世界たる庭へと招いた。また、かりんの強い願いに呼応した先輩プリキュア(『キミとアイドルプリキュア♪』および『わんだふるぷりきゅあ!』のキャラクター)たちも同じく庭に招かれる。

 庭に招かれたキャラクターたちはなんといっても眩しい。キャラクタービジネスの核となる存在であり、目を惹くものがあり、スター性を付与されている。「普通の女の子」とキャラクター紹介に書かれるような子であっても何かしらの華がある。これはかりんだって例外ではなく、本人は認めないだろうがキャラクターとしての華を持った上で登場している。
 しかし、かりんは最初はあんなたちに出会えた嬉しさが勝っていたものの、前向きに頑張るあんなたちの眩しさに交流を深めるうちに気圧され、自分とあんなたちを比較し、自己嫌悪を強める。ちょうど人が物語の中の人物と自分を比較して「こんなふうにはなれないや」と劣等感を抱いたり、諦念を抱いたりするようなものである。

 まごつくかりんに対して「かりんちゃんだって十分すごいよ」といったようなセリフがあんなたちの側から発せられるのだが、己の劣等感に苛まれている人に対して、これは禁句である。また、「そのままでも十分魅力的だよ」というような言葉も禁句である。なぜなら、本人にしてみれば「そのまま」の自分が嫌で嫌でしょうがないからである。いくら自分が輝くモノを持っていることを示されたとして、より強い光の前では霞んでしまう。その光を発する側のキャラクターからそんなことを言われてしまえば立つ瀬がないのである。実際にあんなはこうしたコミュニケーションをかりんに取ってしまい、説得に一度失敗してしまう。

宝石とダメダメ

 先ほども述べたように、かりんは名探偵プリキュアの面々との交流を深める中で、劣等感を強めていった。かりん自作のお菓子を褒めてくれたくれあが本職パティシエ(ール)であるとわかると喜ぶどころか恐れ入ってしまうし、誰とでもすぐに打ち解けられるあんなと、周囲になかなか馴染めない自分を比べてしまったりもする。こうしてかりんは自己嫌悪と劣等感を強めていく。褒められても素直に喜べないし、自分に持っていないものを持っている人を強く羨ましいと思うようになる。
 すると、安全だったはずのかりんの庭に「ダメダメ」が現れた!後に判明するが、「ダメダメ」の正体はかりんの「こんな自分はダメだ」という心に、アランが作り出した宝石が反応したものだった。輝かしいアランとの思い出の象徴は、かりんの自己嫌悪と劣等感によって周囲も自分も否定する闇へと反転してしまったのである。
 アランとの思い出が眩しいほど、あんなたちのキャラクター性が眩しいほど、かりんの心の闇も一層深くなる。「ダメダメ」はその象徴としてかりんの「庭」に溢れて暴れ始める。こうして光は容易く闇へと反転するものであるという今作のテーマが表れてくる。

 今作はとにかく光と影(闇)の対比を目立たせるためか、暗い画面が多い。あまりの画面の暗さに泣いてしまう子どももいたぐらいである。親御さんはお子さんが怖がらないように助言するなど、映画館がトラウマにならないように注意されたい。

紙一重の救出劇

 より深く自分の世界にこもってしまうかりん。そしてかりんを案ずるアランとレインはその性質の違いから戦わざるを得なくなる。声優の熱演もあって迫力のあるシーンに仕上がっている二人の妖精の戦いは、アランの勝利で決着する。ここで、外向性を担うレインが消滅してしまったことにより、もう外へつながる回路は閉ざされてしまった。ちょうど「井戸」に蓋をされてしまったように。
 すでに「井戸」に投げ込まれているプリキュアたちでなければ、もはやかりんの心の壁を打ち砕くことはできなくなってしまったのだ。

 だが、一度説得に失敗して「依頼をこなせなかった」あげく、ダメダメの猛攻によって深く傷ついたあんなは戦う意欲を喪失しかける。そんなあんなをみくるが叱咤し、再び立ち上がらせる。最終的にかりんの心の壁の中に再び突入することに成功したあんな/キュアアンサーは、はじめの説得とはまた違う答えアンサーを提示する。
 それは、(物語の登場人物である)自分たちだって転んだり、挫けたり、失敗してしまうけど、周りの人たちの助けがあればまた立ち上がって一歩踏み出せる……といったようなものだった(うろ覚えで申し訳ない)。
「そのまま」の自分が嫌で嫌でしょうがないかりんに対し、周りの人々と手を取り合って新しい自分に変わることを示したのである。

 アラン(そしてレイン)と共に手を取り合い、新しい自分としての一歩を踏み出すことを決意したかりんは、ダメダメに取り憑かれたアランを救うようプリキュアに頼む。そして、最後はかりんの想いも乗せた浄化技がアランを救う。ここに自らの内向性に決着をつけようとするかりんの強い意志がみえるだろう。

 かくして一人の少女の内的世界は守られた。だが、この救出劇は紙一重であったといえる。かりんは内的世界へのプリキュアたちの来訪を受け入れる余地をまだ残していたし、かりんには共に歩んでくれる妖精の友達がいる。それに、そんな友達と一緒に一歩を踏み出して自分を変えようという意欲を捨ててはいなかった。今回われわれが目撃したのは、そんな紙一重をかわして生まれた「成功例」である。

 内的世界に物語やキャラクターを受け入れる余地のない人だったら?共に歩んでくれる周囲の人々がいない人だったら?「そのまま」の自分は嫌いだけど、変わることに恐れをなして「そのまま」でいるしかないと決め込んで頑なになってしまっている人だったら?こういった可能性について僕は上映中考えざるを得なかった。そして、そういう人は悲しいかな、世の中に存在する。でも、画面の向こうのプリキュアは諦めなかった。一度挫けようとも、再び立ち上がった。物語の癒しが、あまねく広がることを願ってやまない。そんな気持ちにさせられた。

外の世界は光か?

 この映画のテーマの一つに、光と闇の相剋と反転がある。光が強く輝けば輝くほど、闇はいっそう強さを増し、またそれらは絶対的なものではなく、反転しうるものであるというものだ。こうした絶対性を否定し、あらゆるものを相対性に持ち込んでしまうのは老荘思想をはじめとする、アジア的思想の得意技であった。
 歴代のプリキュアでも度々扱われてきたであろうテーマであろうが、直近では前作『キミとアイドルプリキュア♪』に登場する妖精メロロンの存在が、まさに光と闇の相剋と反転を表している。光輝く国、「キラキランド」に生まれながら、闇の性質をもっていたメロロンであったが、それは世界に広がる闇を止めるためのものであったとわかる。そんなメロロンはキュアキッスへと変身し、アイドルとして輝きを放つことができると証明してみせた。キミに元気を届けに行くという『キミとアイドルプリキュア♪』の姿勢もあいまって、たいへん意義のある客演であったといえるだろう。

 映画のラストシーン、かりんは暗闇から一歩踏み出し、光あふれる現実の庭へ飛び出してゆく。だが、結局外の世界は絶対的な光の世界ではない。おそらく、かりんの前にはこれからも試練が立ちはだかり、ふたたび暗闇の世界に戻って自分を癒さねばならないというようなこともあるだろう。だが、プリキュアに教えられたことを胸に、次はもっと違う仕方で、「庭」=「井戸」にこもることができるはずだ。そんな予感を滲ませるラストシーンであった。

 さて、闇の世界から光の世界へ一歩を踏み出したかりんだが、われわれ観客は劇場の暗がりから、光あふれる現実世界へと帰っていく。かりんが踏み出した一歩とリンクする形でわれわれも光のほうへ歩いていく。そこに待ち受けるのは色とりどりのキャラクターグッズである。キャラクターが印刷されたアクリル製の板が1200円ほどで売られている。一瞬手に取ろうとおもう。しかし、これを買ったところでどうなるんだという気持ちが生まれて、出口へと歩みを進める。結局購入を躊躇う気持ちが勝り、それでも後ろ髪を引かれるようにして僕は劇場を後にした。

『名探偵プリキュア!』のグッズ攻勢はすさまじい、とはプリキュアファンの彼女を持つ友人の言葉だ。買っても買っても新商品が出てきて追いつかないほどだという。
 正直に言って、キャラクタービジネスは人々に感動を届けるといった光の部分だけでは語れないところが大いにあるといってよいだろう。かりんが踏み出した外の世界は、光の裏にやはり闇を抱えている。
 かりん、アラン、レインのキャラクターはまさに物語的な世界を心の中に持っているわれわれ観客そのものであるという話を最初の方にしたが、そうした観客たちに対し、確かにプリキュアたちキャラクターは強い光を届けてくれる。そして、キャラクターグッズはアランが作った宝石のように、作品のファンたちの心をあたためてくれるだろう。それでもやはりビジネスはビジネスであり、売上を立てねばならないし、金を出してくれるという人からは大いに出してもらわねばならない。

 かつてのように物語が口承や祭りの中で伝えられるということはすっかりなくなり、物語はもっぱらビジネスと結びついて提供されるようになった。こうしたビジネスのルートに乗せなければ、物語の作り手は作品を世に送り出せなくなってきてしまっている。
 かりんにとって物語的世界は自身の心を守り、養うために必要なものとして存在していた。アランとレインといった妖精はその寓意であろう。だが、今やそうした物語的世界に浸るためには消費が切っても切り離せないものになってしまった。
 それでもやっぱり物語的な世界って人には必要だよね?と映画『名探偵プリキュア!』はわれわれに問いかける。ともすれば制作側の自己弁護に転びかねない厄介な題材であったとおもうが、これを紙一重のところでかわし、強いメッセージ性の光がビジネスの闇を上回った快作であったといえよう。

 何事にも光と闇はあり、裏表に張り合わされながら、ときに反転しながらこの世界は回っている。この世界がある限り、光と闇の角逐かくちくは続く。だが、最後にアランとレインが一体となったように、それら二つで一つの世界なのだ。そうした世界でかりんもわれわれも生きている。

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