「読書が好き」と言うと、やはり世の人は小説を読んでいるイメージを思い浮かべるのではないか。読書好きの人が読了報告に挙げる本はたいてい小説だし、読書好きが本棚を公開しているのを見ると、やはり小説が多く並んでいるように見受けられる。人文書、哲学書の類が本棚に並んでいると「カッコつけてんのか」「どうせ理解できないくせに」と難癖をつけてくる人もいると聞くから、隠しているだけなのかもしれないけれど。
なぜこうも「読書=小説」なのか?
大前提として人間は物語が大好きである。文字が生まれる前からずっと人々は物語を語り継いできた。身近な教訓から神や自然の脅威に至るまで、ありとあらゆる物語を生み出し、人はそこに心を寄せてきた。強い者、優れた者の物語だけでなく、むしろ弱い者、虐げられている者たちの物語が多く残されているというのは松岡正剛が『フラジャイル』で指摘したことである。物語仕立ては人間にとって記憶しやすい形式でもあるようで、伝言ゲームのように語り継がれる中で変形されてはいても、大筋は変わらない物語が各地に存在していて、それらの祖型を探る研究もなされている。
人はこうした物語に触れることによって、登場人物たちに心を寄せ、共にスリリングな体験をし、自分の物語との共通点などをえぐり出して癒しに変えることだってできる。こうした物語の中に入っていく読み方もあれば、神のごとき視点から傍観者として読む方法だってある。別に感情移入しなくとも、ストーリーラインの浮沈に乗せられ、作者の掌で転がされていく快感というのもあろう。
物語への共感が心を揺さぶり、感情移入するにしても神の視点から眺めるにしても、読者がストーリーに自分を乗せることができ、また記憶にも印象にも残りやすいとあれば、小説が読書の筆頭に立つのも当然のことである。
と小説の利点や作用を書いてきたものの、僕は世の読書家と呼ばれる人々と比べると、ほとんど小説を読んでいない(とおもう)。小説なんて寿司でいえばマグロなのに、それを食っていないようなものである。
別に小説が嫌いなわけでもないし、中学生の頃に実施されていた始業前の「朝読書」の時間帯は父から借りた小説(東野圭吾、宮部みゆきなど)や、福井晴敏の『機動戦士ガンダムUC』の世界にどっぷり浸かっていた。とくに福井晴敏作品は中学生にはまだ早い描写の数々と難解な語彙が並んでいたものの、背伸びしたい年頃にはぴったりであったし、わからない言葉は調べるという癖をつけてくれたという意味でも、個人的には大きな意味があった体験だったとおもっている。今でも知らない語彙に出くわすと都度調べて「知らなかった言葉ノート」に記している。おかげで今ではだいたいの読書において、語彙でつまずくということはなくなった。
ではなぜ小説をほとんど読んでいないのかといえば、単純に興味の順番と、回せる時間に限りがあるからである。寿司でいえば、イカや貝、光り物ばかり食っていたらマグロを食う腹がなくなった、というようなものである。
だいたい2年半前ぐらいから人文書に興味を抱くようになって、古今東西の宗教・哲学に触れるようになったのだが、そちらへの興味が優先されて、小説は後回しになってしまっていた。堅い文章ばかりでは疲れるからと別のジャンルも読むのだが、そういうときはたいてい何も考えずに読めるエッセイが優先された。
それでもここ半年ぐらいになって、ようやく小説を読むようになった。というのも、人文書と小説・文学の間には切っても切れぬ関係があり、それぞれを深く読んでいくためにはやはりそれぞれを読んでいかないといけないとおもったからである。というと、あくまで人文書への理解を深めるために小説を読んでいるのではないかという感じに見えるが、いざ小説を読んでみるとやはり引き込まれ、翻弄され、読後に余韻が残るのが気持ちいい。ずっと読んでいなかったのを後悔した。
まだ人気作家の最新作を追う余裕はないので、今は名作家・名作と呼ばれているものを中心に読んでいる。最近の関心は村上春樹と幸田露伴、あとは稲垣足穂などなど。ほとんどタッチできていないが、三島や漱石への関心も膨らんできている。そういえばちょうど今日、村上春樹の最新作が発売されたけど、どうしようかな。
これからも小説は読書界の筆頭を走り続けるだろう。「読書=小説」のイメージも揺るがないとおもう。だけど、誰かが書いた物語を享けて自分の物語に組み込んでいく、という点では小説も人文書もあまり変わらないとおもうから、人文書はもっと読まれていい。
と言ったものの、「令和人文主義」もにわかに熱を帯びているし、実はもうすでに読まれているのかもしれない。僕が世間から隔絶されているから、人文書が読まれているという事実に気づいていないだけかもしれない。
ときどき読書家を貶めるようなことをいう人がいる。「そうやって本を読んでばかりだから」とか「本を読んだって何も役に立たない」だとかいう輩がいる。だが、そうして本を捨てたからこそ社会の問題、人生の問題にぶち当たってもなんら有効な解決策を見出せずにいる人が溢れているのではないか。人生の表層を撫でるだけのハウツー本では解消できない問題に立ち向かうには、小説と、あとはやっぱり人文書が必要なのだ。
また人間には、宗教的なものの力だって借りなければ解決できない問題がある。宗教というだけでアレルギーをおこしていれば、決して辿り着けない心の安寧がある。自分ひとりの力で戦えると思い込んで徒手空拳で世界に挑んだって、いたずらに消耗するだけなのだ。人間という問題に立ち向かうには、小説などのストーリーによる力と、人文書による人間そのものへの反省と考察の相互作用が必要なのだとおもう。
いまや本を読む人と読まない人の差は開くばかりで、読む人はとことん読み、読まない人は漫画すら読まなくなっているという。こういうニュースを聞くと、漫画もちゃんと読書だよなあとおもうようになった。今度は漫画にもターンを回さないといけないな。寿司でいえば小説がマグロ、漫画はサーモンといったところかな。
関連百汁百菜
今回の一汁一菜

2026/04/27分
たけのことほうれん草の味噌汁
豚こま・キャベツ・玉子炒め
野沢菜わさび漬け









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